「思い・気づき」カテゴリーアーカイブ

自分をさらす恐さをどう越えるか

僕は自分の歌を作って歌いたいと思う
でも、自分の歌のなかに自分がにじみ出るのが恥ずかしい
自分の歌を上手く歌えないのが恥ずかしい

つまり、恐い

一方で、内面を表現したい自分がある
でも他方で、内面をさらすのが恐い自分がある

よくわからない

なぜ恐いのだろう

やはり、どう思われるか分からない、
受け入れられないかもしれない、
それが恐いのだろう

どうしたら恐くなくなるのだろうか

で、ひらめいた。

自分を他の人と一緒に楽しめればいいんじゃないか

自分を、他の人と切り離して、自分だけが知っているものとしてかくまってしまうから自分をさらすことは恐くなる
素の自分を見せることなど危険きわまりない

でも、自分を、ダメなところ、不十分なところも含めて、他の人と共有して一緒に味わうことができれば、
自分をさらすことの恐さを何とか越えられるような気がする

もちろん、簡単にできることではないかもしれないけど、
とりあえずどうすればできそうなのか分かっただけでも、
百歩前進

世の中が「作品」であふれたら

「ものが最初に生まれてくるときって、誰のためでもなく、つくった自分のために生まれてくるはずなんです。そこに込められたものの力って、とても強いと思うんです。その気持ちが強ければ強いほど、それは波紋のように、人の心から心に伝わっていく。売れる売れないじゃなくて、作者が自分で気に入っているか、気に入っていないか。それが、つくられたものが「作品」であるかどうかを分けるポイントなのかもしれません。」

ほぼ日手帳のことば:細井潤治


自分の身を削るようにしてものを作り込む。
作られたものに向き合い、本当に納得できるか、好きになれるか、問いただす。
納得できなければ、やり直し。

そうやって創り出されたものは、
その人がいたから、その人だから生み出せたもの。
その人の「作品」。

そんな「作品」は、その人がいたからこそ生まれたもの。
そういう意味で、その人が生きていた証。

ものを創り出すのなら、
自分が生きていた証となる「作品」を創ることにこだわりたい。
生きた証にならないものはをいくら創りだしても、
ただのモノだから。

生きた証となる作品づくりといっても、
これは、いわゆる「芸術家」の作品づくりの話だけじゃない。

「普通の仕事」にしても
ちょっとした人助けでも
人と過ごす時間でも
散歩道でのゴミ拾いでも
自分ならではの「作品」を創り出せる

みんなが毎日自分がやっていることの中で「作品」を創ることにこだわって、仕事場でも、満員電車の中でも、近所でも、みんなの「作品」があふれかえったら、何かすごいことが起こりそう。

そんな気がしませんか。

 

数値目標と生み出す過程

これはどの人も感じていることだろうけど、昨今の成果主義は、基本的なところで人を疲弊させる。

それは、成果主義—少なくとも今広がっている形のもの—はプロセスをないがしろにして不信と不安を増幅させるアプローチだから。

厳しい成果主義は短期的には人々から馬鹿力を引き出すこともあるかもしれない。でも、中長期的には、ものを生み出すプロセスの劣化と、目標の後退、挑戦意欲の喪失を招く。

成果主義を極端に形式化すれば、数値主義(何でも数値化)に至る。数値だけで成果を測って締め上げれば、人は数値だけを追いかけ、生み出されるものの質にこだわっていられなくなる。

出口だけがチェックされ、しかもチェックの基準が数字で測れることだけ。努力は報われず、失敗に対するペナルティーだけが大きくなる。

そうなれば、必然的に失敗を避けることだけに意識が注がれるようになる。

今の「現場」に多い光景。残念ながら。

画一化と安心・信頼

信頼、安心ってなんだろう。

ロボットが組み立てる製品は、寸分違わず全く同じものが何十万も何千万もできる。並べてみても隣のモノもその隣のモノも全く同じで入れ替えてもわからない。

それが大量生産時代の安定品質、品質保証。

一個一個のものが生み出される中の個別のストーリー性を極力消すことに信頼性と安心を見いだす。

工業製品のような典型的な消費物についてはそんなものかもしれない。

でも、そんな工業製品に囲まれすぎているからか、時に人や幸せまでも同じように考えられていないか?

「みんなと同じ」、想定外のことがなく、生のゴチャゴチャが感じられないのがいいもの、完成度が高いもの…

画一的なモノで囲まれて整然とした世界、不思議な安心感と安定感を与えてくれるけど、同時に大事な何かから切り離されているのかもしれない。

宛先のない贈り物

贈り物はうれしいもの。

特に、自分が期待していなかった、予想外の贈り物は心を躍らせてくれるし、幸せを感じさせてくれる。

世の中には受け取り手が特定されている贈り物はたくさんある。

そうした贈り物は人と人のつながりを強くしてくれ、顔がわかる友がいるという安心感を与えてくれるだろう。

でも、受け取り手が決まっていない贈り物は、世の中をどことなく、なんとなく、温かく、明るくしてくれる。

宛先のない贈り物は誰でも受け取れるし、もらった喜びが特定の個人の関係に還元されずに漠然とした人の心遣いのぬくもりとして感じられるから。

そんな宛先のない贈り物、たくさん作って、世の中にぷかぷかと送り出していきたいね。

ブログにあげるポストも、写真も、ひとつひとつ、受け取ってくれるみんなのことを思って、受け取ったときにちょっと握りしめたくなるように、と思いを込めてあげてます。

次世代の中に育てたいもの

デザイン思考を教育に生かす取り組みがないかとネットを検索していたら、ありました。

Design For Change というインド発の取り組み。デザイン思考の枠組みを土台として、子どもたちの中に「自分たちにできることがある」「自分たちに起こせる変化がある」という意識を育てようというプログラムです。こちらがそのサイト:

http://www.dfcworld.com/

この取り組みは世界のあちこちに広がっているようで、日本でも始まっているようです:

http://designforchange.jp/

そこに掲げられている目標は、僕が力を注ぎたいと思っている人育てと重なります。

若い人、子どもたちに、自分たちを取り巻く世界を意識し、積極的に知り、そこで感じた違和感に対して、自分たちにも何かできることがある、という自信を持たせ、行動を起こせる安心感と意欲を持たせてあげたい。

自分たちの働きかけで状況が変えられるという自信があると、人は周りの問題に対する関心が強くなり、自分たちが行動を起こさなくてはという責任感や、状況をよくしたいという気持ちも自然と強くなる、そんなもんじゃないでしょうか。

楽観的すぎ、むしろ脳天気な考え方なのかもしれないけれど、その可能性を信じたいと僕は思っています。

どんな先進的な理論や問題解決手法でも、一つの枠組みを型どおりに当てはめて理解・解決できるほど世の中の問題は単純ではないです。だから、理論や手法をいくら教えても、その効果は限定的。

大事なのは、実態をよく見て人の話を良く聞いて理解する力と、自分が状況を変えられるという自信。それこそが次世代を担う若者、子どもたちの中に僕が育てたいと(僭越ながら)思うものです。

「デザイン思考」への期待

今、問題の見極めと課題設定・解決のアプローチとしての「デザイン思考」に関心を持っています。

ちょっと長いですが、より多くの人たちと一緒に考えたいので、なぜ「デザイン思考」に関心があるのか、を少し詳しく書いてみます。

自分にとって一番重要だと思えるのが「現場」と「当事者」からスタートすることです。

「デザイン思考」では、問題状況の分析と課題設定をするときに、まず問題の現場に向かい、そこでのフィールドワークを通して、当事者を取り巻く状況をじっくり見回し、当事者の目線で状況を理解するところから始めます。このアプローチは、遠くから外形的に問題状況を観察し、一般的論理に基づいて分析を進めるやり方とは大きく異なるものです。

ちょっと単純化した例で考えてみます。例えば、ある学校で中3の1クラスで数学の成績がふるわないという問題があったとします。これがどのような問題なのかを見極めようとするとき、理屈で考えると、以下のような要因が考えられそうです:
a) そのクラスに数学が不得意な子ばかりが集まっている
b) そのクラスを担当している数学教員の教え方が悪い

そうなると対策は
a’) そのクラスだけに特別補習をする
b’) 担当教員の教え方を変える
b’’) 担当教員を替える
といったあたりになりそうです。

でも現場に行って観察し子どもたちに話を聞くと違った光景が見えてくるかもしれません。例えばそのクラスの数学は決まって昼食後の眠い時間帯ににあって皆眠くて仕方がない、としたら、どうでしょうか。

デザイン思考のよいところは、現場に身を置いて直接観察し、当事者たちの話を聴くことでその文脈を理解し、当事者が置かれた状況を肌で感じることを重要視して、それを基盤として問題解決への取り組みを方向付けることです。

これは、永年フィールドワークを通して言語を調査・研究してきた自分にはすごくしっくりとくるアプローチです。

現場を訪れるときにいつも思いますが、遠くからは単純に見えるような現象でも、実際には遙かに複雑で、あいまいなものです。問題現象(あるクラスの数学の成績が良くないこと)が直接的・論理的要因(生徒の学力が低い;教師の教え方が悪いなど)によってのみ引き起こされているような単純な例は現実には少ないものです。特に今のような変化の激しい時代には、一見関係なさそうな間接的要因や制約の数々が複雑に絡みあって、一筋縄では解決しにくい状況を作りだしていることの方が多いでしょう。

だからこそ、単純化した論理思考を当てはめて問題が分かった気になって筋違いの解決法をどんどん考え出す力よりも、現場に行って良く周りを見回し、人の話に耳を澄ませ、そこから問題状況を丁寧に解きほぐして、当事者に向き合った解決法を探る、そんな現場に根ざした柔軟な知性を育てたいと思うのです。デザイン思考はまさにそういうアプローチのように見えるので、期待しています。

世界を変えることと征服することの違い

朝日新聞の土曜版に載っていた河原成美さん(博多一風堂・創業者) のインタビューが面白かった。

ラーメンを世界食にしたいという川原さんのことば:

{ラーメンが世界食と認められた時}すしにカリフォルニアロールが出現したように、{ラーメンの定義も}変わります。日本では、かん水を入れた中華麺を使っていないとラーメンではないと言いきれるが、世界中、どこでも手に入るわけではないから、その条件は通用しない。スープのだしも百花繚乱になるでしょう。

 外国人が自由な発想で、これが自分のラーメンだと宣言して店を出す。そこに現地の人が行列をつくり、商売が成り立つ。それが物珍しいことではなくなったとき、すしのレベルに手が届いたといえるでしょう。

これを読んだときに、この人はラーメンで世界を変えたいと思っているんだな、と思った。

これは、ラーメンで世界を征服したいと思っているのとは違う。

「ラーメン」を形で定義して、決まった味、決まった具材で構成された料理として固定し、それをそのまま世界に広める。世界の人に、決まり事としての「ラーメン」を受け容れさせる。それがラーメンによる世界征服。

世界征服は、自分を変えず、自分を広げ、世界に押しつける。

川原さんは、ラーメンを狭く固定的な料理として捉えるのではなく、外国の人との出会いの中でラーメンが変容することを受け容れている。ラーメンの外形的なかたちは「ラーメン」の本質ではないと考え、むしろ食事への一つのアプローチと捉えているのだろう。

おもしろい。

世界を征服するのではなく変えるには、異質なものとの出会いの中で自分が変容することに対してオープンでなくてはならない。逆説的に聞こえるが、相手の中での本質的な変化はお互いが変化し合う相互作用でこそ起こるんだろう。

変わらないために変わり続ける

「変わらないために変わり続ける」

(河原成美 <博多一風堂・創業者>)

大事なことは守りたい。
大事なことに関してはぶれずにいたい。

守る、ぶれない、というと、頑なに変わらないでいるべきだと思ってしまいがちだけれども、変わることを拒んでいるとき、守っているのは自分だけ。

大事にしたいのがもっと大きいものだったら、いつも自分が柔軟に変わり続けていないと、守り切れない。

恐れは創造力の敵

恥ずかしさを含む恐れは創造力の敵。
創造的な力を骨抜きにしてしまうから。

我々はだれでも創造力をもって生まれてくる。

創造的な力は自分が授かった「自分らしさ」そのもの。
幼いときは気兼ねなく、恐れることなく「自分らしさを」表現する。

しかし、「自分らしさ」を表に出すことに対する批判的態度や、まだか弱い「自分らしさ」を傷つけられる経験などを積み重ねる中で、人は徐々に自分の中に備わる「自分らしさ」、創造力を表現することを恐れるようになる。

自分らしさ、創造力を押しつぶす恐れを越えるためには、自分の創造性に沿った行動を一つでも多く積み重ねて、恐れを形骸化するのが一番。

そのためには、自分の中の自分らしさ、創造力をたきつける。

そうすることで、表現したいという内的圧力を上げ、中から自分を超えるためのエネルギーを爆発させよう。