「人らしい」関わりがあれば問題からも良いものが生まれる

多くの組織でそうだと思いますが、僕がいる組織でも、部署の間のコミュニケーションが取りにくくなっています。どの部署でも日々不定型で複雑な業務や依頼・要求があちこちから投げ込まれる一方で、効率化や実績を細かくチェックされる。

そんな環境の中で、みんながいつも不安に駆られ、他の人たちに対して不信を抱き、それが原因で頑なで不寛容の態度を取ったり、あたったりする。そしてそれが相手に不安と不信感を増幅し、また次の不寛容や八つ当たりを生む。

これは哀しいかな、良く聞く話。話として聞くときには、何てことだ、と残念がり、それを買えなければと思ってみたりするが、自分が職場に行って朝から頭の硬いメールの二つ三つももらえば、あっという間に負のスパイラルにがっちりはまり込んでしまう。

特に年度末が近づくこの時期はそう。

でも、今日ちょっと良いことがあった。起こったこと自体はカチンとくることだった(会計の部署の処理状況が見えにくいために予算執行がちぐはぐになり、結果として結構な額の立て替え金が請求できなくなってしまった)けど、関わった担当者たちとのやり取りがよかった。どちらの人も互いに連絡を取り合いいろいろとできることを考えてくれて、臨機応変な「生きた」対応をしてくれたので、「ひと」とやり取りをしている感じがして、嬉しかった。

結果としては解決できなかったけれども、その担当者たちの努力には感謝の気持ちが湧いてきた。そこで、その気持ちとせっかくいろいろ考えてもらったのに無駄になってしまったことのお詫びをメールしたら、自分たちのシステムが不親切な部分が多々あるので詫びなくてはならないのはこちらの方で、これからもっとわかりやすくできるようにしていきます、という返事が来た。

この返事を見て、問題が起こったことがある意味よかったとさえ思えた。問題が起こらなかったらこの人たちの心遣いを見ることはなかったから。

人と人が「人らしく」関われると、問題からも良いものが生まれるんだな。

信頼の主導権

人と力を合わせて生産的な方向に物事を動かすには、お互いの間の信頼が本当に大事だと思う。いや、むしろ前提だと言ってもいい。だから、チーム内での信頼を作っていくべくがんばろう。

でも、そういうことを言うと、「でも、今はとても人を信頼できるときではない」といった答えが返ってくる。そして、人を信頼できない世の中を憂えている。もっと人が誠実であれば、私ももっと人を信頼できるのに。ため息交じりで、同時に、現実を見ろよとたしなめているようでもある。

確かに、信頼する人に裏切られることもある。僕自身、辛い裏切りを感じたことはあるし、その傷はまだ心のどこかに麻痺として残っている。闇雲に人を信じるのもよくない。

しかし、主体的に自分の心に信頼を取り戻すためには、自分の意志と覚悟を持って信頼するしかない。

信頼は大きなリスクを伴った心の投資、賭け。なんとなくはできない。もちろん相手が信頼に足る人であってほしいと祈るわけだが、そのことが分からないから信頼できないのと言うのではいつになっても外因に振り回され、信頼関係の構築の主導権を自分が持つことはできない。

だから、僕はまず自分から、信じる。