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不正は研修やスローガンではなくならない

ここのところ大きな「不正」がニュースを賑わせている。ちょっと前のことだが、新聞の1面に、ゴムメーカーが品質チェックのデータを改ざんして強度の足りないゴム製品を売り続けていた話、排気ガス規制をかいくぐる細工をしていた車メーカーの続報、基礎の支柱の工事データをごまかしてちゃんと打ち込んでいなかったために傾いたマンションの話、と3つもの事件が載っていた。

どれも深刻な不正で、大変なことだ。

こうした事件への対応は、だいたい、誰がやったのか、悪意があったのか、誰が知っていたのか、という「犯人探し」の形をとる。もちろん、特定の個人だけではなく「組織の体質」のようなものが問われもするが、基本的に当事者たちの倫理意識の低さが原因だということで片付けられる。はっきりそのように言われなくても、その後に起こることを見ると明らかにそういう片付け方をしていることがわかる:当事者たちは処罰され、他の人たちは「コンプライアンス研修」を受けさせられたり、「倫理ハンドブック」を配られたり。つまり、見せしめの罰や倫理教育によって不正を防ぐことができると考えている。しかし、こうした対処の仕方は、不正をする理由に対する想像力が弱すぎ。

そもそも人が不正をしてしまうのは、不正行為が悪いことだとわかっていないからではない。

たとえば、納期厳守が至上命令、納期を守れなかったらクビ、そういう価値観の中で追い詰められたら、どうか。目の前の現実にあるリスクの方が遠い人たちのことや結果などよりも深刻に感じられ、目先のことを優先して考えてしまうことは十分ありうる。外から見たら常軌を逸した判断だと思えることでも、その常識的考えを大きく歪めるほどの異常な圧力がかかった状況に置かれていたら、同じようには見えないだろう。

もちろんやってはいけないことは明らかなのだが、そんな建前を言っても、ひとが瞬間的にでも腹いせで動くこともたくさんある。本当の対策は、現実を否定していては始まらない。

不正をした理由をよく聞いた上で、本当の理由への対策を打つことなく、不正だけを咎めると、人は理解してもらえないことに心を閉ざしてしまう。

「良心」「倫理」の態度を理解させようとする努力は重要だが、「良心」「倫理」を外的に押し付けようとしてもうまくはいかない。外的強制は、それが効力を発揮しても建前が発達するだけ。

人の「良心」「倫理」を本当に育てるためには、他の人に対する想像力、共感力を育てることが大事。ただ、その力を持つ前提として、自分が尊重されているという根源的な安心感、自己尊重感が必要。自分を大事に思えない人は人のことも大事には思えない。

目の前にいないひとを大切にする価値観を保つためには、環境は大切。社会環境は価値観、価値判断を思いの外大きく形づける。

数値目標と生み出す過程

これはどの人も感じていることだろうけど、昨今の成果主義は、基本的なところで人を疲弊させる。

それは、成果主義—少なくとも今広がっている形のもの—はプロセスをないがしろにして不信と不安を増幅させるアプローチだから。

厳しい成果主義は短期的には人々から馬鹿力を引き出すこともあるかもしれない。でも、中長期的には、ものを生み出すプロセスの劣化と、目標の後退、挑戦意欲の喪失を招く。

成果主義を極端に形式化すれば、数値主義(何でも数値化)に至る。数値だけで成果を測って締め上げれば、人は数値だけを追いかけ、生み出されるものの質にこだわっていられなくなる。

出口だけがチェックされ、しかもチェックの基準が数字で測れることだけ。努力は報われず、失敗に対するペナルティーだけが大きくなる。

そうなれば、必然的に失敗を避けることだけに意識が注がれるようになる。

今の「現場」に多い光景。残念ながら。