価値を創り出すとは予想を裏切ること

話であれ、行動であれ、相手の予想の範囲内のものは安全。

人に怪訝な顔をされることもないし、悪印象を与えることもない。

その代わり、人の印象に残ることもない。

聞いたとたん、見たとたんに、ああ、そういうことね、と片付けられるか、流される。

その人が元々持っていたものに何かを足すわけでもなく、ひっくり返すわけでもないのだから。

でも、予想外の話や行動は、危ない。

相手がどう反応するかわからないし、注意を引いてしまい逃げ隠れできないから、批判や嘲笑の標的になりうる。

でも、だからこそ、予想外の話や行動には価値がある。

受け手にとって、予想外の話や行動に出会うことは奇跡。

それまで知ることも気がつくこともなかった喜びや、感激や、驚きや、欲求に気がつかせてくれるのだから。それは、自分でもほしいことに気がつかなかった贈り物をもらうようなもの。

価値のある行動の裏側にはリスクを冒す覚悟がある。
リスクを冒したから価値が生まれるわけではないが、
リスクを冒さなければ価値が生まれることはない。

価値は、消費する以上に生み出していたい。

そのためには、いつまでも「あぶないオジサン」でいつづけなきゃ!

可愛げのある人

いくつになっても可愛げのある人でありたいと思う。

自分も可愛げのある人にひかれるし、可愛げのある人とは一緒にモノづくりができる気がするから。

じゃあ、可愛げがある、ってどういうことなんだろう。

「可愛げ」をつくる要因はいろいろあるんだろうけど、その中核は、勝とうとしていない、ということなんじゃないか。勝とうとするのは、他の人からの意見かもしれないし、他の人の運や境遇かもしれないし、他の人の容姿や強みかもしれない。

もちろんただただ負けて、自己否定に走ってしまうのはよくない。でも、いつも勝とうとしていると、周りや他の人に見られる良いところ、幸運、うなづける意見、全てが打ち勝つべき対象として感じられてしまう。

そうなると、自分がいいな、うなづけるな、と思うことであればあるほど、打ち勝ちにくい脅威として感じられてしまう。羨ましくなってしまったり、納得してしまったら負けだから。

そして勝ち目がなさそうだと、対象を否定したり、攻撃するしかなくなる。

そうやって、いいなと思うことに対するネガティブな行動が起こる。それがポジティブがネガティブに変わる瞬間。

「優等生」として成功してくると、ものごとを勝ち負け事で捉えて勝とうとしてしまう傾向が強いようにも思う。

「優等生」は勝ち方をよく学び、勝つことの楽しさを多く体験している中で勝ち負けのゲームに過剰適応してしまいがちなのかもしれない。合わせて、自分が感じた勝つことへの賞賛の繰り返しと、負けた人への仕打ちを見る中で、負けることへの恐怖も持つようになるのだろう。

しかも、負けることが少なければ少ないほど、負けることが怖くなってしまう。負けることの恐怖から抜け出るのは早いほうがいい。

楽しく負ける、勝ち負けにとことんこだわることはしないというのが、人とのつながりを豊かにしていくひけつかもね。

まず共感から

世の中の何か、人との間の何かを変えようとするときに、他の人を理解できてはじめて前に進むことができる。

そして、他の人を理解するには共感がカギになる。

共感とは、同情することではない。人が取った行動を、その背景にある現実認識からスタートして見てみる、ということ。

人は腹が立つことや意味の分からないことすることがある。でも、その理由が、その人たちが「バカだから」とか「悪意に満ちた奴だから」であることはほとんどない。

人が自分に理解できない行動を取る理由を、その人がバカだから悪人〜理解できない人間〜だから、と考えることは、自分にはわかりやすく簡単な説明ではあるが、その人の頭と心の中をブラックボックス化してしまい、理解しにくくしてしまうことになる。

相手の頭と心の中がどうなっているのかより正確にわからないと、どこ部分が変化のための鍵になるポイントかわからず、何に働きかけたらいいのかがわからない。

人というのは、知っていること、信じていること、持っている価値観、満たさないではいられない欲求、などでは違っていても、その上のロジック、結論の導き方はそうとんでもなく違うものではない。まして、同じ文化の中で育ったならばなおさら。

だから、もし改善、解決への一歩を目指すなら、信じらんない!とんでもない奴!と憤慨するところを越え、良い悪いの判断をとりあえず止めて、相手の意識空間に入ってみることからはじめてみるというのはかなり有効。

「なるほど、そういう状況であればそういう行動を取ってしまっても無理はないか」と思えるところに立ってみると相手の行動がどこから来ているのかが見えてきて、相手への働きかけのポイントも見えてくるんじゃないだろうか。

皮肉なもので、相手への働きかけの可能性が絶望的に思える時ほど、相手への共感が働きかけの近道だったりする。

多くのものがそうであるように、最も難しそうな道に打開策が隠されているらしい。

Inspired by: Seth Godin’s blog “Empathy”

Fragile dreamer

自分は引っ込み思案な夢追い人なのだと思う。

夢見ることは好き
無茶な夢でも追いかけようと思う
追いかけるためにいつでも身体ごと飛び込もうと思う

人生、夢見ることが終わる段階はないと思う
夢を追いかけ回ることが大人げないとしたら、大人にはなるまいと思う
いや、なっちゃいけないと思う

自分は夢を持つ資格がないと思っている人、夢を追いかける勇気が出ない人を見ると放っておけない
その人の命がもったいないと思うから

でも、僕の中の夢追い人は引っ込み思案
無関心、無反応にはめっぽう弱い
皮肉屋のあきれ顔や懐疑派の批判は屁とも思わないけど
見向きをしてくれる人、乗ってくれる人がいないとすぐテンションが下がってしまう

もっと強靱な夢追い人でありたいと思っているけど
精神論だけではどうにもならないし
相手の反応に敏感なのは必ずしも悪いことじゃないかとも思う

引っ込み思案な夢追い人という性質は自分の結構奥深くに根ざしたものらしい
もともと寂しがりで恥ずかしがりでいながら、不器用なので、本気で取り組むには自分をさらけ出すくらいしか芸がない
でも、それで、これまで良かったこと、創り出せたこともたくさんあるから
これはこれで受け入れて、そこからどう積み上げるかを考えることにした

無関心には弱く、相手の反応に敏感という「弱さ」を持った自分の発揮できる力を最大にするために思いついた戦略

それは、向き合う相手と場所を見極めること

もともとすべての人の役には立てないし、すべての人に足しになることをできるほど器用でも多才でもない

だから、自分が役に立てる人、役に立てる場所を見極める
新しい人とのつながり、新しい場所に挑んでいくのは一生懸命やるけど
本気でコミットすべきかどうかという見極めを大事にしていきたいと思っている

できあがっていない人はオープンだからいい
いろいろ一緒にやれそうで、その可能性に心躍る
だからできあがっていない人に対してはほぼ無条件でコミットします!

自信は価値ある行動の上に

自分を信じることは大事なこと。

単に何となく気分が良くなるからとかではなくて、人に伝えること、新しいものを創り出すこと、何かを世に問うこと、すべてが自分を信じることから始まるから。

でも、それが難しい。

セス・ゴディンのブログで良いことが書いてありました。

「自分を信じろ」というアドバイスをいくらもらっても、「自分を信じよう」といくら自分に言い聞かせても、確信は得られない。

自信を前借りしてそれを基盤にこれからすばらしいことをやっていけるに違いないと力むよりも、むしろ、行動を通して自分に対する確信を築き上げていく方が現実的。

まだ自分に自信が持てなくても、自分が本心から価値があると思えることをまず実行する。

ほんの小さなことでもいい。

そして、自分が価値あることを実行し、大切に思えることを生み出せたことをしっかり実感する

その上で、次の価値あることを実行する。

そうやって徐々に大きな価値を生み出す行動を重ねる。

そうして積み上げた行動を振り返ってみれば、自分の力を確信できるようになる。