「生きること」カテゴリーアーカイブ

大きな夢には味方が大事

新しいことをやるというときには、一人は必ず味方がいてくれないと — 「それ、おもしろいよ!」って言ってくれる人がいないと — はじめの一歩を踏み出しにくい。

じゃあ、自分がおもしろいことを思いついたら、まずは誰かに言ってみるよう!

『ほぼ日刊イトイ新聞』今村正治+糸井重里 「はたらく場所はつくれます論」

 

挑戦し続けたいけどそれほど強くはない自分にとって、味方は本当に大切。

もちろん、味方にすがるわけではないし、応援を欲しがるわけでもない。

ただ、自分一人でできることに限界があることはわかっていて、それでいて、自分一人でできることよりも大きい夢を持ち続ける。おもしろいことを一生懸命話したらその意気を感じ入って助けてくれる人がいると信じ続ける。

そんなふうに味方を頼みにするということは、夢を自分のサイズに収めないで、自分よりもひと回りもふた回りも大きな夢を追い続けるためには必要なこと。

そう生きていきたい。

「まとも」

「まとも」と言われると嬉しくなったり、「まともじゃない」と言われることを恐れたり。この「まとも」という基準は結構パワフルで、自分も結構「まとも」の顔色を伺って生きてきた気がする。

ということで、「まとも」について少し考えてみました。

「まとも」とか「ちゃんとしている」ことは大事。
なぜなら、それは最低限の質を支えるための基準だから。

そう我々は思っていて、日常でもこのフィルターをかけていることが多い。
「まともでない」もの、「ちゃんとしていない」ものは相手にしない、取り合わない。

でも、しごく当然で常識的な基準であるこの「まとも」、よく考えると危ないところがある。

まず、「まとも」という判断の土台は、「社会的通念」「世間の常識」とでも言える様々な規範的な前提でできていて、あるものを「まとも」と呼ぶときには同時にその規範に当てはまらない人間に対する批判が隠れている。集団の規範・期待に添わない物事を「変な」奴、「外れ」者として「規格外」としてラベル付けして外す。その点で、「まとも」というラベルは、排除のロジックの一つ。

排除のロジックは、社会の中に選別と対立を生み出し、社会を毒する。

さらに、「まとも」は個人をも毒してしまう可能性がある。自分の考えや行動を「まとも」かどうかでフィルターにかけ、もっぱら「まとも」な考え方、「まとも」な行動をすることを優先してしまうとき、そこでやっているのは集団の規範・期待ばかりを基準に動くこと。

いうまでもなく、集団の規範・期待に沿おうとすること自体が悪いことではないが、もっぱら「まとも」であることを第一に考えてしまうと、自分のめざすこと、自分の考える幸せを端に退けて「世間」的な目標や幸せで自分を縛ることになってしまう。

自分の境界の喪失と広がり

今日、長年自分が持っていて不思議に思っていた感覚の意味がふとわかった気がして、自分で感動したので、共有します。少しスピリチャルな感じでわかりにくいかもしれませんが…

子どもが生まれたとき、いろいろ大きな変化があったのですが、そのひとつが、自分の人生の終わりがそれほど怖くなくなったことでした。

それまでは、なんか自分が死ぬということにある絶対的な終わり感のような緊張感をもっていた気がするのですが、それがフッと解け、気持ちが楽になったのです。自分の周りを狭くはっきりと囲んでいた死という境界線が不明確になって、ずっと向こうまで地平が広がって見えるようになった。そんな感じです。うまく言えているかわかりませんが。

はじめは、子どもができて自分のことを覚えていてくれる人ができたからなのかとか、自分に自分の夢を託すことができると感じるからなのかとか思ったのですが、どうも違いました。その時以来、これは何なんだろうと考えていましたが、20年ほどずっとわかりませんでした。

それが、今日、ふとわかった気がしました。

ずっと向こうまで地平が広がっているような感覚は、自分という存在が、子どもや自分がつながっている大切な人を通じて、自分の身体を遥かに越えて広がっているという感じなのです。そんな中では自分の死ということがそれほど絶対的な終わりのようには思えなくなったんだと思います。

自分の子どもという深いつながりのある人間が生まれて、自分と他の人の間の境界が崩れたのでしょうね。それとともに、自分という存在も外に流れだし、他の人の存在と混ざって、さらに広がっていくように僕には感じられるんだと思います。

不思議な感覚。

わかりにくいかもしれませんが、なんか共有したくなったので、書いてみました。

恐れを知らないこととわからないこと

勇敢で恐れを知らない人とは、恐るべきことをしっかり恐れ、その上でその恐れに惑わず、逃げず、しっかり向き合うことができる人。恐れを感じない、わからない人ではない。

楽天的な人とは、悲しいこと、不安なことをしっかり感じて、その上でその悲しみや不安を押しのけながら、未来を信じる決意を持っている人。悲しみや不安を感じない、わからない人ではない。

強い人とは、打ちのめすような苦しいこと、辛いことを身体中で受けとめながら、その上でその苦しみや辛いことで自分が定義されることを拒み、断固として幸せであろうとする人。苦しみや辛さを感じない、わからない人ではない。

感じない、わからない人は、ネガティブなことに影響を受けず、勇敢で、楽天的で、強く見える。羨ましくさえ思える。でも、感じない、わからない人には勇敢さも楽天も強さもないのだと思う。なぜなら、ポジティブな生き方はネガティブなことがないことから可能になるのではなくて、ネガティブを受けとめて土台にすることで作られるものだから。

だから、恐れや悲しみや苦しみを感じることは、しっかり幸せになる能力があるということ。それがあるから幸せが作れる。

本当かどうかわかりません。
でも、あれこれ悩むことが多い僕はそう考えていないとやってられないのでそう信じてます。

同じように悩み性の人も、一緒にそう信じましょう。
そうでない方は、読み流してくださいませ。

恐れに向き合う力を得るには

僕は敏感で、感情的にも振れ幅が大きい性質なので、恐れや衝動などに突き動かされる部分が大きいです。なので、こうした恐れや衝動にどのように対するのかというのは、僕にとって大変大きなテーマ、いや命をどれだけ使いきれるかのカギであると言っても過言ではないと思っています。

思えば、これまでずいぶんと感情のジェットコースター気分を味わってきましたし、周りを振り回したこともあったと思います。そういうことを言うと、よく驚かれたりするのですが、中ではかなり戦い苦しんでいるところもあるんです。

今では、その恐れや衝動に少しずつ上手く対処できるようになってきましたが、そのきっかけについて、今日はお話ししようと思います。

僕にとっての転機となったのは、自分に多くの恐れや衝動があり、自分がそれに振り回されがちであるということを自分だけではなく人にも認めたことでした。最初は文字通り息がつまるほど抵抗を感じましたが、必死でそれを乗り越えてみると、憑き物が取れたように身体と心が軽くなったのを覚えています。

その抵抗を越えてみてわかったのですが、恐れや衝動が僕らを突き動かすその力の強さは、恐れや衝動自体の強さというよりも、それらの感情を恐れ向き合えないことからきているようです。夜道で後ろに感じた気配の怖さが、その怖さのあまり振り向けずに走り始めると爆発的に大きくなるのと同じ感じです。

もちろん、向き合っても実際に感じた恐れや衝動がなくなるわけではないですが、少なくとも手に負えない感じで増殖することはなくなり、「等身大」で向き合うことができます。

自分が極度に恐れていること、罪悪感を持っていること、恥ずかしいと思っていることは、まずその存在を認めてしまうことが向き合う第一歩。言うのは簡単。本当にやるのは相当難しいです。でも、信頼できる友達の力を借りればなんとかできます。本当の友達に自分を預けるつもりで身を投げ出してみる。その勇気を出すことができれば、超えられます。

おしくらまんじゅう

おしくらまんじゅうとは、不思議なあそびだ。

おしくらまんじゅうの楽しさは、グループをどこかに向けて動かすことではない。おしくらまんじゅうの楽しさはみんなで押し合うこと自体にある。その結果皆がどこに至っても楽しい。

最近、人生の面白さもそんなものかも知れない、と思う。

というか、人生をおしくらまんじゅうのように楽しみたいと思ってきた。

人生がおしくらまんじゅうだとしたら、とにかく体当たりを繰り返すことが大前提。

自分の体当たりによってどうこうしようとあれこれ考えたりせず、自分の体当たりがグループの中で思いも寄らない方向に転がるのを面白がる、それが楽しむコツ

だよね。