学びを支えるもの

本当の学びは、常に自己破壊をはらんでいるもの。

役に立ちそうな知識や技術を手際よく身につけること、これも学びの一部でないとは言えないが、本当の学びとは質的に異なる。今の自分を危険にさらさずに知識や技術を小手先で使うことを覚えても、化ける成長は起こらない。

だから、変わることを拒むと学べない。

学びを止めないためには、どんな事柄、相手に対しても自分を守りすぎず、自分が変えられてしまうことを受け入れる用意を持ち続けること。

それだけに、学びと成長のプロセスには不安や恐れはつきもの。
だからこそ、深い学びと成長がおきるには、何をおいても深い信頼と安心がまず必要だと思う。
そんな深い学びと成長がおきる関係、場を少しでも多くつくっていきたい。

成果を絞り出すことばかりにこだわり、そこから逆算してしか学びや成長を考えない傾向が強い今の世の中には、あまりに少ない気がするんだよ、そういう関係、場所が。

「甘さ」を失わない覚悟

幸せ、嬉しい、ありがたい、みんな優しい!と思う経験に慣れるのは大事なこと。

慎重派の人たちは、そんな「甘い」状況に慣れたらロクなことがない、というかもしれない。周りに甘い期待を持っても、結局期待は裏切られ、傷つくだけだから、世間は厳しいと思って期待していない方がいい、と。

確かに、そうして人に頼らなくなれば傷つきにくくなるかもしれない。そして、そういう人は側からは強い人に見えるかもしれない。

でも、そういう「冷たい世間」に適応した人ばかりになったら、その嫌な「冷たい世間」が現実になってしまう。

傷つくことを恐れて身構えて、硬い反応を返す人たちは、その彼らの恐れ、そこからくる硬い過剰反応が「冷たい世間」を作っていくことに気がついていない。

僕らは自分はあくまで、すでにある状況に反応しているだけ、自分は何もしていないと思いがちだが、それはケンカを始めた子供たちが相手が叩いてきたことしか言わないのと同じ。

何かに反応してやったことだとしても、自分が世の中に作り出す行為であることに変わりはない。

冷たい世間を前提に行動していれば、周りの人はだんだんそうなっていく。犯罪者のように扱われれば、人はだんだん犯罪者のような気待ちになっていく。同じように、周りの人を「冷たい世間」のように扱えば、周りの人はだんだんそういう扱いに沿った行動を返してくるようになる。

だから、幸せ、嬉しい、みんな優しいのが当たり前の世の中をつくり出したければ、期待を裏切られる恐れや傷つけられる痛みと戦いながらも、幸せや優しさを当てにする「甘さ」を持ち続ける。その覚悟がいる。

一人ではなかなかその強さを維持するのが難しいけど。

できることからではなく、やるべきことから

ステップとしてはできることからやるのは大事。でも、目標はできることを基準に考えたくない。

自分の生き方を、今の自分にできることを基準に考えると、どんどんショボくなり、ワクワクもしない。自分が成長しないことを前提にして未来を今の延長線上に引きずり下ろしてしまうから。

本当にやりたいことから考えよう。
今の自分には届かない目標だって、いやそんな高望みだからこそ、全力が出せる。

背伸びしたり、人と力をあわせたり、届きそうにない目標だから、身体も頭もフル回転させられる。

今の自分の枠外で考えること。これがカギだね。