人との間合いの難しさ、面白さ

混雑している駅などで前から衝突コースで人が歩いてくる。それをよけるのは結構難しい。

相手の歩き方を見つつ、ぶつからないようにコースを変える。すると、なにを思ったか相手もコースを変えて。慌てて避けようとしたら相手も同じことをして、結局ぶつかってしまう。なんてことは意外と多い。

前からきたのが物だったらこんなことは起こらないだろう。

相手が人の場合は、相手方もこちらの動きを常にモニターし、お互い相手の動きを予想して、それに応じて双方が行動を細かく調整する。

ここに人相手の間合いの取り方の難しさがよく表れている。

我々はややもすると、相手が人であっても、物であっても、外界にあるものは基本的に物理法則に従って動くとおもってしまう。だが、人通しの場合は、お互いがお互いの判断や行動に影響を与えあっているから、動きが予想外になる。

特に、問題となる間合いが物理的なものではなく、心理的な間合い(親しさや信頼、相手への気兼ねなど)であると、間合いの解釈、評価のズレが大きくなりやすいので、うまく調整するのは至難の業。

全てをきちっと想定内に収めてコントロールしようと思うと、こういう相互作用は困ったものだと思えてしまうけれども、相手に半分預けつつ、互いに意識し合いつつ間を合わせていく、これこそが生きた関係。それを味わい、楽しむ柔軟さ、余裕を大事にしていきたい。

どうせ変わらない?自分と自分の可能性を疑う前に

自分のやるべきことは何か
生きたいのはどんな人生か
どうしたらそれができるのか
そのためには何が必要なのか
どのような戦略が必要なのか

一生懸命考える
考えに考え抜く

それを積み重ねてしばらくしてふと自分の状況を見てみると、
あまり大して変わっていない

どうしてちっとも変わらないんだろう?
まだ全然知識が足りないのか
自分には必要な能力・リソースが足りないのか
やっぱりそう簡単には変えられないのか

行き詰まりを感じ、焦りがこみ上げてきて
自分の熱意や能力に対する不安、不信が出てくる
夢がしぼみ、力が抜けていく

そんなことを結構繰り返してきた

でも、ふと思いついた
自分を、可能性を、自分の努力の成果を疑う前に、自分が本当に「行動できているか」確認しよう

夢が妄想になっていないか
– 本当の夢と、ないものを追いかける渇望が混在していないか

行動を起こせているか
会うべき人に会っているか
外に出て現場を見ているか
足を動かしているか、アクションを起こしているか
ゴールに向かって何かを作ってみているか
やったことを形にしてShipしているか

自分の行動を広げているか
新しい人に会っているか
新しい場所に行ってみているか

本当にやり尽くしたのか
会うべき人にすべてあったか
やれることはすべて試したか
可能な失敗をすべてやり尽くしたか

こうやって振り返ってみると、意外と行動が起こせていないことに気がついた
なかなか時間が自由にならないとか
どんな行動を起こせばいいか、まだ発想力が貧困だとか
そんな問題はあるのだろうが、十分行動にできていないことは明らか

とすれば、それは自分の能力やリソースや可能性や運などのせいにして、自分はダメだと考えるのはお門違い

自分や自分の努力を疑うのは、やることをやってから
それまでは、安易に自分や自分の努力を疑うことはやめよう

そう決めました。

自分も心当たりがあるという方々、頑張りましょう!

不正は研修やスローガンではなくならない

ここのところ大きな「不正」がニュースを賑わせている。ちょっと前のことだが、新聞の1面に、ゴムメーカーが品質チェックのデータを改ざんして強度の足りないゴム製品を売り続けていた話、排気ガス規制をかいくぐる細工をしていた車メーカーの続報、基礎の支柱の工事データをごまかしてちゃんと打ち込んでいなかったために傾いたマンションの話、と3つもの事件が載っていた。

どれも深刻な不正で、大変なことだ。

こうした事件への対応は、だいたい、誰がやったのか、悪意があったのか、誰が知っていたのか、という「犯人探し」の形をとる。もちろん、特定の個人だけではなく「組織の体質」のようなものが問われもするが、基本的に当事者たちの倫理意識の低さが原因だということで片付けられる。はっきりそのように言われなくても、その後に起こることを見ると明らかにそういう片付け方をしていることがわかる:当事者たちは処罰され、他の人たちは「コンプライアンス研修」を受けさせられたり、「倫理ハンドブック」を配られたり。つまり、見せしめの罰や倫理教育によって不正を防ぐことができると考えている。しかし、こうした対処の仕方は、不正をする理由に対する想像力が弱すぎ。

そもそも人が不正をしてしまうのは、不正行為が悪いことだとわかっていないからではない。

たとえば、納期厳守が至上命令、納期を守れなかったらクビ、そういう価値観の中で追い詰められたら、どうか。目の前の現実にあるリスクの方が遠い人たちのことや結果などよりも深刻に感じられ、目先のことを優先して考えてしまうことは十分ありうる。外から見たら常軌を逸した判断だと思えることでも、その常識的考えを大きく歪めるほどの異常な圧力がかかった状況に置かれていたら、同じようには見えないだろう。

もちろんやってはいけないことは明らかなのだが、そんな建前を言っても、ひとが瞬間的にでも腹いせで動くこともたくさんある。本当の対策は、現実を否定していては始まらない。

不正をした理由をよく聞いた上で、本当の理由への対策を打つことなく、不正だけを咎めると、人は理解してもらえないことに心を閉ざしてしまう。

「良心」「倫理」の態度を理解させようとする努力は重要だが、「良心」「倫理」を外的に押し付けようとしてもうまくはいかない。外的強制は、それが効力を発揮しても建前が発達するだけ。

人の「良心」「倫理」を本当に育てるためには、他の人に対する想像力、共感力を育てることが大事。ただ、その力を持つ前提として、自分が尊重されているという根源的な安心感、自己尊重感が必要。自分を大事に思えない人は人のことも大事には思えない。

目の前にいないひとを大切にする価値観を保つためには、環境は大切。社会環境は価値観、価値判断を思いの外大きく形づける。

言葉の意味が伝わる基盤は、信頼

言葉というのはその内容が大事。

それは間違いないのだけれども、
効果を考えると、実は思う以上に誰からもらうかが大事だったりする。

例えば、信頼できそうもない人から発破かけるような言葉をもらっても、
白々しく感じたり、
場合によっては、イラっときたり

どんなにいい言葉がけも、自分が信頼する人からもらわないとぐっとこない

だから、逆に、自分の言葉を人の役に立てたいと思ったら、
メッセージの練り込みや言葉使いの手法を磨くことよりも
まず、信頼してもらえる関係を作ることから

「社会起業家」は特別な人たちなのか

セス・ゴディンのブログより:

より良い社会を作っていくために世の中の価値観や考え方を変えていくべくビジネスを作っていこうとする人を「社会起業家」と呼んだりするが、それには少し問題がある。

というのも、そうした人たちに特別な名前を与えて特別扱いすることで、逆に、他の人たち、「普通の起業家」たちはより良い社会づくりなどは考えず、ただひたすら金儲けに邁進すれば良いと思わせてしまう危険性があるからだ。

しかし、どんな仕事、どんなプロジェクトも何らかの変化をもたらし、その変化は人々の世界や価値観に影響をあたえる〜つまり、社会を変える。もたらす変化が良いものか悪いものかは、我々が決めること。

そう考えると、我々は誰でも「社会起業家」なのだ。人によってもたらそうとするインパクトの大きさに違いはあるけれども、それは程度の問題であって、社会の変化をもたらすか否かの違いではない。

Original article: “We are all social entrepreneurs”

同じような意味で、「社会問題」という用語も、それがあるがゆえに、社会の中の取り組むべき問題を狭く考えさせているところがありますね。「社会問題」というのは、何もメディアで大々的に報道されたり、政府が選挙対策のために政策課題として取り上げるようなものばかりではないはず。社会の中の様々な問題と「社会問題」は違ったカテゴリーの問題じゃないです。

「社会問題」を広く社会にある個人を越えた問題だと考えれば、誰でも何らかの社会問題に影響を与えうる立場にいることになりますよね。

自分が生きていることの価値ってなんだろう

自分が生きていることの価値ってなんだろう。

人生を通して何度となく、ふと立ち止まっては考えてきましたが、今は、人の人生に触れて変える数かなと思っています。

一人ひとりの命とその営みはそれ自体尊いということは確かだと思いますが、自分の人生を振り返る時に、「生きた証」とか「生きた甲斐」をどこに感じるだろうかと考えてみると、自分がやったことそのものより、それが人々にもたらした影響や変化こそが実感をもたせてくれるような気がします。

だから、自分が他の人にもたらしうる最も良い形の変化はなんだろうと考えます。

ただ、人への影響や変化を考えながら生きるわけですが、人への影響や変化を「目的」として生きるわけではありません。人が影響を受けたり変化したりするのは、その人の自由で、僕がどうこうできるものでも、しようとすべきことでもないからです。

結局、意識するのは、他の人への影響を意識し、良かれと思いながら生きるということ、なのかな。

表現の価値

「僕は仕事をするうえで、エンターテインメントや表現に関わる人の評価基準は、どれだけの人にどれだけの大きさで影響を与えることができたかだ、と思っているんですね。『仕事の価値は、他人の人生を変えた数で決まる』と。」
(カドカワ社長・川上量生)

確かに。自分よがりに出したいものを出したいように出す、というのではなく、相手にしっかり向き合って、相手に届くように表現の仕方を悩み工夫すべき、という点では本当にその通りだと思います。

ただ一方で、どのような影響を与えるかはこちらが一方的に決めるべきものでも、決められるものでもないと思っています。表現する方としては良かれと思って、自分なりに心を込めて届けるわけですが、相手にとってどのような肥やしになるのか、ならないのか、については相手の中で起こることで、表現者としては、相手の人生に触れることができたという奇跡に感謝するだけ。

学びについてのパラダイム転換

僕は、広い意味で教えること、人の成長を導きそれに寄り添うことを自分のミッションだと考えています。大きく広がる好奇心、学び方を学ぶ力、問題を見いだし切り出す力、問題の本質的な解決とは何かを見極める力、自分の価値観を自覚する力、その価値観に沿って自分で選択する力を育てること、それに命をかけたいと思っています。

そのために、これまでいろいろな形で努力し、工夫もしてきました。その方法は、基本的には良い質問を投げかけることだったと思います。好奇心を刺激し、自分で考え、行動を起こせるようにするために、いかにツボに入って内的な知的エネルギーの爆発を引き起こすような質問をするか、一生懸命考えてきました。

でも、ずっと何か掴みきれていない歯痒さのようなものをずっと感じていました。しかし、それは相手から力を引き出す自分の質問力が未熟だからだと思っていました。

それが、この本を読んで、何もかも一気に吹っ飛びました。

『たった一つを変えるだけ』
ダン・ロスステイン、ルース・サンタナ著;吉田新一郎訳(新評論)

この本のポイントは非常にシンプルです。

真の学びを作るには学ぶ側が良い質問を作る能力を育てること、これだけです。

これだけだと最近割とよく聞くことのようですが、私が衝撃を受けたのは以下のくだりです:

「指導者ないし教師が良い質問をしているかぎりは、対象者は良い質問ができるようには決してならない」(iv)

「子供達は生まれながらの質問者。…子どもたちが質問をし続けるかどうかは、大人たちの反応にかかっています。」 (28)

「よい質問をたくさんつくり出し、そのなかから価値ある質問を選べるようにしてあげないかぎりは、学びも、組織との関係を築くことも社会の仕組みをうまく活用することもできないのです。」(iv)

なんと。教える側が良い質問を練れば練るほど学生や若者たちの中の良い質問の芽が刈り取られるとは…

これは相当にショックでした。

でも、ゼミやワークショップでの様子を思い返してみると思い当たることがあります。こちらが黙ってその場に流れに任せていると次々と面白い疑問や意見が出てくるのに、こちらが考えや意見を引き出そうと前のめりで練り込んだ質問をすると、質問の答えは出てもそれ以上盛り上がらないとか。

この本では、教える側は一切質問をしてはならないとまで言っています。

とんでもない本に出会ってしまいました。この本を読んで以来、授業だけではなく、研究会やワークショップに至るまで、新しい学びと探求の場の作り方についてアイデアがどんどん生まれてきてゾクゾクしています。

答えの探し方より問い方

実社会の問題は答えが一つではない。

その理由の一つは、実社会の問題は基本的に複雑で、その問題の全体をきれいに解決するようなたった一つの正解などはありえないから。

もう一つの理由は、問題にどのような影響を受けるかは人によって違うので、解決の仕方、何をもって解決と言えるのかは、誰の立場を考えるかで「解決」の仕方が変わるから。

つまり、答え方は無限大で、唯一の正解はない。
問題のどの側面を誰に対して解決するのかを考えなくては、求めるべき解決方さえわからない。

だから、大事なのは正しい答えを探すことではなく、正しい問い方を見つけること。質問をどのように設定するかでどのような答えが導かれるかが決まる。質問の立て方が洞察にとんだ面白い視点に基づいていなければ、洞察に富んだ答えは出てこない。

そう考えると、しばしば言われることではあるけれど、答えを探すこと、しかも素早く効率的に探すことばかりに躍起になりがちな従来の学校教育がいかに現実社会での問題解決から遠いか、改めて思う。

教科書の問題をどんなに速く解くことができても、それは予め決まった場所で予め決まった規則に沿って起こる課題の解決ゲームに過ぎない。まして、公式だけを覚えて問題解きの効率化を競ったりしていれば、その訓練は本質的な問題解決からはどんどん遠のいていく。

社会の変化の少なく、問題も定型化しているようなときであれば、それもまだ役に立つところもあったのかもしれないが、今のように変化が速く大きいときは、学校での「問題解決ごっこ」は役には立たないだろう。

今はとにかく質問の仕方で悩むべき時。

まして今は、従来の考え方でまともに答えを探しても解決法が見つからない問題が多い。全く別の枠組みで問題を捉え直して答えを作り出していく柔軟な知性が必要とされている。