おしくらまんじゅう

おしくらまんじゅうとは、不思議なあそびだ。

おしくらまんじゅうの楽しさは、グループをどこかに向けて動かすことではない。おしくらまんじゅうの楽しさはみんなで押し合うこと自体にある。その結果皆がどこに至っても楽しい。

最近、人生の面白さもそんなものかも知れない、と思う。

というか、人生をおしくらまんじゅうのように楽しみたいと思ってきた。

人生がおしくらまんじゅうだとしたら、とにかく体当たりを繰り返すことが大前提。

自分の体当たりによってどうこうしようとあれこれ考えたりせず、自分の体当たりがグループの中で思いも寄らない方向に転がるのを面白がる、それが楽しむコツ

だよね。

モノ化の広がり

消費社会というのは恐ろしい。

消費型経済はその「発展」と共に従来の「物」だけでなく、形のないサービスをも商品とするようになった。このすごい発明の結果、世の中に「売りモノ」がグッと増えた。そして、最近は労働をベースにした直接サービスから、情報、価値、気分までが「売りモノ」にされている。その真偽はおいておくとしても、「金で買えないものはない」と言い切る人も少なくない。

こうした消費型経済の発展のおかげで実現された素晴らしいこともあるし、便利になったことも多く、世の中が効率的に動くようになった部分も多い。特殊技能やアイデアが商品として流通することで、自分には技能やアイデアをもたないという人でも活用できるようになった。技能や知識上の富が広く社会に広まり共有されるようになった。

ただ、その反面で負の影響も大きい。

消費型経済でのこの無差別・無節操な「商品化」は、一方で、僕たち自身の人生をもモノ化してしまった。

消費者は「商品」に対して、比較による価値判断、それによる選択と消費、という形でしか関わらない。その「商品」を生みだす現場やプロセスに関する知識や当事者意識はない。

今僕らの周りは消費対象としての「商品」で常に囲まれている。その中では、例えば、人を育てるプロセスである教育でさえ「サービスとしての商品」であると考えられがちだ。

それどころか、絶対にモノ化できないはずの「自分」でさえもモノ化してしまっている人たちが少なくないように見える。自分の人生にもかかわらず、自ら作って生き抜くという当事者、作り手であることをやめて、消費者として選び、使い捨てる対象にしてしまっていないか。

自分の人生の外に身をおいて、外側から良いとか悪いとか品定めしているって変だよね?

自分が自分の人生を外から眺めている間、その人生を、誰が生きているの?

夢のような仕事って

夢のような仕事はなかなか見つからない。

まあ、だからこそ「夢のような」仕事なわけだけれど。

「夢のような仕事」が見つからないのは就職マーケットを知らないことが原因ではない。そもそも、情報を集めれば見つかるものではない。

「夢の仕事」は多くの場合「見つかる」ものではなくて、「創り出す」もの。そして、自分の合った仕事を創り出すには、自分がどのような人間なのかをしっかりと知っておく必要がある。

自分はどんなことに一生懸命になっていると楽しいのか
どんな時に喜びを感じるのか

多くの場合、自分の喜びは人の喜びとつながっている。人が喜んでくれると自分も喜びやすいから。だから、あわせてこんなことを考えてみるといいかもしれない。

どんなことをすると喜ばれるのか
どんな喜ばせ方が得意なのか

自分についてよく考えることは、けっして「ナルシスト」や「自己中心的」なんかではない。だって、自分がどのような事で最も必要とされているかを考えることなのだから。

自分自身が満足できていると、他の人の役にも立ちやすい。自分が最も喜びを感じられる人の喜ばせ方、それが「夢のような仕事」。

だから、自分の喜び方、喜ばせ方をよく振り返ってみよう。