「世界を変える」カテゴリーアーカイブ

イグノーベルこそが創造力を解放する

友達から聞いた話。

息子さんが属している理系大学院の研究室でどうやったらノーベル賞が取れるかという話をしたら、すぐに話が尽きてシーンとなってしまったそうです。ところが、どうやったらイグノーベル賞が取れるかという話に切り替えたら、ものすごく盛り上がって、次から次へ面白いアイデアが出たというんです。

これって面白いですよね。

高額な大規模施設を使ったりして推し進める正統派研究は現在的な価値が高く権威もあるでしょう。でも、正統派研究というのは、研究活動としては間口が狭く、また新しいものを生む活力はないのかもしれないですね。正統派研究は、研究体制も意義も確立しているでしょうが、それ故に、それに乗った「勝ち組」を優遇し乗っていない「負け組」を排除するような図式を作り出しているのかもしれません。また、研究の対象もやり方もきっちり絞り込まれているでしょう。

それに対して、イグノーベル賞での価値観の幅広さ、面白がる心は、心を自由にして新しいことを試したり挑戦する気持ちを刺激することは確かです。

やはり、自分の周り、自分の関わるところにこのイグノーベル賞的な空間を一つでも多く作っていきたいなあ。

こだわり、関われば、世界は変わる

この「世の中」、なんでこうなんだろう。もっと良くなればいいのに!

そんな風に思うことは少なくない。

でも、「世の中」って、自分でどうにかできるものではないし、ただこうなればいいのにと願ったり、思い通りにならないことを愚痴ることくらいしかできない。そう思えてしまう。

確かに、世の中の趨勢は1人の人の行動でどうにかなるものじゃない。

でも同時に、意外と気がついていないのは、  自分が理念として求める(と言っている、もしくはそう思っている)ものと、その場その場の場での実際の選択行動が一致していないことが結構多いということ。

安売りの店ばかりがはびこると残念がりながら、買い物は安売りの店に行く。
伝統芸能が失われてしまうと嘆きながら、実際に伝統芸能を見に行きはしない。
心がこもっていない仕事が増えていることを嘆きながら、心をこめた仕事はしない。
お互いに無関心な都会の社会崩壊を憂いながら、他の人のことに関心は持とうとはしない。

もちろん全てにおいて選ぶべき選択肢を選ぶことは難しいかもしれない。職人の技をサポートしたいけどお金がないとか。

でも、自分の選びかたが「世の中」を少しずつだけど確実に形作っていることを意識していたい。

何だかんだと言っても、結局世の中の形はこれまでの人々の選択の積み重ねによって形作られている。

だから、いいと思ったこと、変えたいと思ったことには、関わろう。

どんなに小さな、どんなにささやかな形でもいいから。

一人の一つの選択、一つの行動が「世の中の流れ」を作っていることを意識して、主体的に関わっていこう。

世の中が「作品」であふれたら

「ものが最初に生まれてくるときって、誰のためでもなく、つくった自分のために生まれてくるはずなんです。そこに込められたものの力って、とても強いと思うんです。その気持ちが強ければ強いほど、それは波紋のように、人の心から心に伝わっていく。売れる売れないじゃなくて、作者が自分で気に入っているか、気に入っていないか。それが、つくられたものが「作品」であるかどうかを分けるポイントなのかもしれません。」

ほぼ日手帳のことば:細井潤治


自分の身を削るようにしてものを作り込む。
作られたものに向き合い、本当に納得できるか、好きになれるか、問いただす。
納得できなければ、やり直し。

そうやって創り出されたものは、
その人がいたから、その人だから生み出せたもの。
その人の「作品」。

そんな「作品」は、その人がいたからこそ生まれたもの。
そういう意味で、その人が生きていた証。

ものを創り出すのなら、
自分が生きていた証となる「作品」を創ることにこだわりたい。
生きた証にならないものはをいくら創りだしても、
ただのモノだから。

生きた証となる作品づくりといっても、
これは、いわゆる「芸術家」の作品づくりの話だけじゃない。

「普通の仕事」にしても
ちょっとした人助けでも
人と過ごす時間でも
散歩道でのゴミ拾いでも
自分ならではの「作品」を創り出せる

みんなが毎日自分がやっていることの中で「作品」を創ることにこだわって、仕事場でも、満員電車の中でも、近所でも、みんなの「作品」があふれかえったら、何かすごいことが起こりそう。

そんな気がしませんか。

 

世界を変えることと征服することの違い

朝日新聞の土曜版に載っていた河原成美さん(博多一風堂・創業者) のインタビューが面白かった。

ラーメンを世界食にしたいという川原さんのことば:

{ラーメンが世界食と認められた時}すしにカリフォルニアロールが出現したように、{ラーメンの定義も}変わります。日本では、かん水を入れた中華麺を使っていないとラーメンではないと言いきれるが、世界中、どこでも手に入るわけではないから、その条件は通用しない。スープのだしも百花繚乱になるでしょう。

 外国人が自由な発想で、これが自分のラーメンだと宣言して店を出す。そこに現地の人が行列をつくり、商売が成り立つ。それが物珍しいことではなくなったとき、すしのレベルに手が届いたといえるでしょう。

これを読んだときに、この人はラーメンで世界を変えたいと思っているんだな、と思った。

これは、ラーメンで世界を征服したいと思っているのとは違う。

「ラーメン」を形で定義して、決まった味、決まった具材で構成された料理として固定し、それをそのまま世界に広める。世界の人に、決まり事としての「ラーメン」を受け容れさせる。それがラーメンによる世界征服。

世界征服は、自分を変えず、自分を広げ、世界に押しつける。

川原さんは、ラーメンを狭く固定的な料理として捉えるのではなく、外国の人との出会いの中でラーメンが変容することを受け容れている。ラーメンの外形的なかたちは「ラーメン」の本質ではないと考え、むしろ食事への一つのアプローチと捉えているのだろう。

おもしろい。

世界を征服するのではなく変えるには、異質なものとの出会いの中で自分が変容することに対してオープンでなくてはならない。逆説的に聞こえるが、相手の中での本質的な変化はお互いが変化し合う相互作用でこそ起こるんだろう。