人の気配

製品に張られた表示シール
きっちり貼られたシールよりも、
すこし傾いたシールの方がいい

そこには、生身の人が関わったほのかな温かみがあるから。

ソファーに置かれたクッション
きっちり縫われたカバーもいいけれど
その隣のギザギザ縫いのカバーの方が好きだな

君が縫ったことが一目で分かるから。

そんな君も段々上手になっていって
君の縫い目であることが分からなくなっていくのかな

上手になってもクセが残ると良いなぁ

君らしさをいつも見ていたいからね。

自分をさらす恐さをどう越えるか

僕は自分の歌を作って歌いたいと思う
でも、自分の歌のなかに自分がにじみ出るのが恥ずかしい
自分の歌を上手く歌えないのが恥ずかしい

つまり、恐い

一方で、内面を表現したい自分がある
でも他方で、内面をさらすのが恐い自分がある

よくわからない

なぜ恐いのだろう

やはり、どう思われるか分からない、
受け入れられないかもしれない、
それが恐いのだろう

どうしたら恐くなくなるのだろうか

で、ひらめいた。

自分を他の人と一緒に楽しめればいいんじゃないか

自分を、他の人と切り離して、自分だけが知っているものとしてかくまってしまうから自分をさらすことは恐くなる
素の自分を見せることなど危険きわまりない

でも、自分を、ダメなところ、不十分なところも含めて、他の人と共有して一緒に味わうことができれば、
自分をさらすことの恐さを何とか越えられるような気がする

もちろん、簡単にできることではないかもしれないけど、
とりあえずどうすればできそうなのか分かっただけでも、
百歩前進

世の中が「作品」であふれたら

「ものが最初に生まれてくるときって、誰のためでもなく、つくった自分のために生まれてくるはずなんです。そこに込められたものの力って、とても強いと思うんです。その気持ちが強ければ強いほど、それは波紋のように、人の心から心に伝わっていく。売れる売れないじゃなくて、作者が自分で気に入っているか、気に入っていないか。それが、つくられたものが「作品」であるかどうかを分けるポイントなのかもしれません。」

ほぼ日手帳のことば:細井潤治


自分の身を削るようにしてものを作り込む。
作られたものに向き合い、本当に納得できるか、好きになれるか、問いただす。
納得できなければ、やり直し。

そうやって創り出されたものは、
その人がいたから、その人だから生み出せたもの。
その人の「作品」。

そんな「作品」は、その人がいたからこそ生まれたもの。
そういう意味で、その人が生きていた証。

ものを創り出すのなら、
自分が生きていた証となる「作品」を創ることにこだわりたい。
生きた証にならないものはをいくら創りだしても、
ただのモノだから。

生きた証となる作品づくりといっても、
これは、いわゆる「芸術家」の作品づくりの話だけじゃない。

「普通の仕事」にしても
ちょっとした人助けでも
人と過ごす時間でも
散歩道でのゴミ拾いでも
自分ならではの「作品」を創り出せる

みんなが毎日自分がやっていることの中で「作品」を創ることにこだわって、仕事場でも、満員電車の中でも、近所でも、みんなの「作品」があふれかえったら、何かすごいことが起こりそう。

そんな気がしませんか。

 

数値目標と生み出す過程

これはどの人も感じていることだろうけど、昨今の成果主義は、基本的なところで人を疲弊させる。

それは、成果主義—少なくとも今広がっている形のもの—はプロセスをないがしろにして不信と不安を増幅させるアプローチだから。

厳しい成果主義は短期的には人々から馬鹿力を引き出すこともあるかもしれない。でも、中長期的には、ものを生み出すプロセスの劣化と、目標の後退、挑戦意欲の喪失を招く。

成果主義を極端に形式化すれば、数値主義(何でも数値化)に至る。数値だけで成果を測って締め上げれば、人は数値だけを追いかけ、生み出されるものの質にこだわっていられなくなる。

出口だけがチェックされ、しかもチェックの基準が数字で測れることだけ。努力は報われず、失敗に対するペナルティーだけが大きくなる。

そうなれば、必然的に失敗を避けることだけに意識が注がれるようになる。

今の「現場」に多い光景。残念ながら。

画一化と安心・信頼

信頼、安心ってなんだろう。

ロボットが組み立てる製品は、寸分違わず全く同じものが何十万も何千万もできる。並べてみても隣のモノもその隣のモノも全く同じで入れ替えてもわからない。

それが大量生産時代の安定品質、品質保証。

一個一個のものが生み出される中の個別のストーリー性を極力消すことに信頼性と安心を見いだす。

工業製品のような典型的な消費物についてはそんなものかもしれない。

でも、そんな工業製品に囲まれすぎているからか、時に人や幸せまでも同じように考えられていないか?

「みんなと同じ」、想定外のことがなく、生のゴチャゴチャが感じられないのがいいもの、完成度が高いもの…

画一的なモノで囲まれて整然とした世界、不思議な安心感と安定感を与えてくれるけど、同時に大事な何かから切り離されているのかもしれない。

宛先のない贈り物

贈り物はうれしいもの。

特に、自分が期待していなかった、予想外の贈り物は心を躍らせてくれるし、幸せを感じさせてくれる。

世の中には受け取り手が特定されている贈り物はたくさんある。

そうした贈り物は人と人のつながりを強くしてくれ、顔がわかる友がいるという安心感を与えてくれるだろう。

でも、受け取り手が決まっていない贈り物は、世の中をどことなく、なんとなく、温かく、明るくしてくれる。

宛先のない贈り物は誰でも受け取れるし、もらった喜びが特定の個人の関係に還元されずに漠然とした人の心遣いのぬくもりとして感じられるから。

そんな宛先のない贈り物、たくさん作って、世の中にぷかぷかと送り出していきたいね。

ブログにあげるポストも、写真も、ひとつひとつ、受け取ってくれるみんなのことを思って、受け取ったときにちょっと握りしめたくなるように、と思いを込めてあげてます。

次世代の中に育てたいもの

デザイン思考を教育に生かす取り組みがないかとネットを検索していたら、ありました。

Design For Change というインド発の取り組み。デザイン思考の枠組みを土台として、子どもたちの中に「自分たちにできることがある」「自分たちに起こせる変化がある」という意識を育てようというプログラムです。こちらがそのサイト:

http://www.dfcworld.com/

この取り組みは世界のあちこちに広がっているようで、日本でも始まっているようです:

http://designforchange.jp/

そこに掲げられている目標は、僕が力を注ぎたいと思っている人育てと重なります。

若い人、子どもたちに、自分たちを取り巻く世界を意識し、積極的に知り、そこで感じた違和感に対して、自分たちにも何かできることがある、という自信を持たせ、行動を起こせる安心感と意欲を持たせてあげたい。

自分たちの働きかけで状況が変えられるという自信があると、人は周りの問題に対する関心が強くなり、自分たちが行動を起こさなくてはという責任感や、状況をよくしたいという気持ちも自然と強くなる、そんなもんじゃないでしょうか。

楽観的すぎ、むしろ脳天気な考え方なのかもしれないけれど、その可能性を信じたいと僕は思っています。

どんな先進的な理論や問題解決手法でも、一つの枠組みを型どおりに当てはめて理解・解決できるほど世の中の問題は単純ではないです。だから、理論や手法をいくら教えても、その効果は限定的。

大事なのは、実態をよく見て人の話を良く聞いて理解する力と、自分が状況を変えられるという自信。それこそが次世代を担う若者、子どもたちの中に僕が育てたいと(僭越ながら)思うものです。

「デザイン思考」への期待

今、問題の見極めと課題設定・解決のアプローチとしての「デザイン思考」に関心を持っています。

ちょっと長いですが、より多くの人たちと一緒に考えたいので、なぜ「デザイン思考」に関心があるのか、を少し詳しく書いてみます。

自分にとって一番重要だと思えるのが「現場」と「当事者」からスタートすることです。

「デザイン思考」では、問題状況の分析と課題設定をするときに、まず問題の現場に向かい、そこでのフィールドワークを通して、当事者を取り巻く状況をじっくり見回し、当事者の目線で状況を理解するところから始めます。このアプローチは、遠くから外形的に問題状況を観察し、一般的論理に基づいて分析を進めるやり方とは大きく異なるものです。

ちょっと単純化した例で考えてみます。例えば、ある学校で中3の1クラスで数学の成績がふるわないという問題があったとします。これがどのような問題なのかを見極めようとするとき、理屈で考えると、以下のような要因が考えられそうです:
a) そのクラスに数学が不得意な子ばかりが集まっている
b) そのクラスを担当している数学教員の教え方が悪い

そうなると対策は
a’) そのクラスだけに特別補習をする
b’) 担当教員の教え方を変える
b’’) 担当教員を替える
といったあたりになりそうです。

でも現場に行って観察し子どもたちに話を聞くと違った光景が見えてくるかもしれません。例えばそのクラスの数学は決まって昼食後の眠い時間帯ににあって皆眠くて仕方がない、としたら、どうでしょうか。

デザイン思考のよいところは、現場に身を置いて直接観察し、当事者たちの話を聴くことでその文脈を理解し、当事者が置かれた状況を肌で感じることを重要視して、それを基盤として問題解決への取り組みを方向付けることです。

これは、永年フィールドワークを通して言語を調査・研究してきた自分にはすごくしっくりとくるアプローチです。

現場を訪れるときにいつも思いますが、遠くからは単純に見えるような現象でも、実際には遙かに複雑で、あいまいなものです。問題現象(あるクラスの数学の成績が良くないこと)が直接的・論理的要因(生徒の学力が低い;教師の教え方が悪いなど)によってのみ引き起こされているような単純な例は現実には少ないものです。特に今のような変化の激しい時代には、一見関係なさそうな間接的要因や制約の数々が複雑に絡みあって、一筋縄では解決しにくい状況を作りだしていることの方が多いでしょう。

だからこそ、単純化した論理思考を当てはめて問題が分かった気になって筋違いの解決法をどんどん考え出す力よりも、現場に行って良く周りを見回し、人の話に耳を澄ませ、そこから問題状況を丁寧に解きほぐして、当事者に向き合った解決法を探る、そんな現場に根ざした柔軟な知性を育てたいと思うのです。デザイン思考はまさにそういうアプローチのように見えるので、期待しています。

大学改革の行く末

あまり簡単にもうダメだとかは言いたくはないですが、今の大学を取り巻く「改革」にはかなり根本的な疑問を持たざるを得ません。内田樹さんのこの記事(「国立大学改革亡国論「文系学部廃止」は天下の愚策」)、長いですが、大学の側から見た光景が非常に正確に捉えられていると思います。

内田さんも言っているように、国立大学にも問題は少なくなかったが、昨今のコロコロ変わりつつどんどん強引になっていく文科省からの「改革」を見ていると、国立大学という仕組みや文科省主導の教育制度は近いうちに機能不全に陥るだろうと思います。少なくとも、自分が命を懸けるような教育の場ではなくなります(今でもほとんどそうではなくなっています)。

実業界からすれば、時代錯誤とか社会の実情やニーズから乖離しているなどと見えるのでしょうが、社会のすべてが今の経済活動に最適化されるべきだと考えること自体が危険だということに気がつかないのでしょうか。それとも、大学での教育や研究も経済活動に最適化して実業界での即戦力だけを育てることを求めなくてはならないと思うほど、実業界はじり貧で余裕がなくなっていると言うことことなんでしょうか。

どちらにしても、大学での教育・研究環境の破壊はものすごいスピードで進んでいます。この記事の最後で内田さんが指摘しているように、あるべき教育を考える場は私塾しかないかなと僕も思っていて、大学の枠を離れた教育活動の道を真剣に考え、模索しています。

できなかったことをやってくる時間

先日とあるワークショップに参加したのですが、そこで出された課題が非常に面白くて、刺激的でした。

その課題というのは、「2時間半あげます。これまでやりたかったけれどもできなかったことを何か一つやってきてください」というもの。

ビックリしません?

しかも、これは、ワークショップが始まり一通り自己紹介(これがまた「ふつう」じゃなくて面白かったんだけど)が終わったところで出された、一発目の課題。

即興に弱い(というか極度に緊張する)僕はちょっとしたパニックに陥りました。別にたいそうなことをやれと言われているわけではないので、力まなくてもいいんですが、力んでしまう性分なんです。

他の参加者が次々と部屋を去ってそれぞれのミッションに向かっていく中で、とにかく気を落ち着けて考えました。

「そう言えば山手線一周ってしたことないなぁ。この機会やってみるか。さすがに2時間半もかからないだろうし…」

しょうもないことだけどとりあえず何か思いついたことにホッとして、窓から見える景色を眺めていたら、あった、あった、やりたいと思い続けていたのにやることができないでいること!

それから30分ほどで2つミッションを達成しました。

一つは、自分でビデオトークを撮ること。
中にはご存じの方もいると思いますが、今2人で「エデンの東口」というネット番組を作ってYouTubeで公開しています。でも、1人でもどんどんビデオトークを撮っていく度胸を付けたいと思っていたので、試しにでも撮ってみようとずっと思っていたのですが、なかなか機会がなかった。そこで、何でも良いからスマホで自撮りのビデオを作りYouTubeにアップしてしまうことで、これまでの「やりだせない」を壊してしまおう、と思いました。

もうひとつは、外で歌ってそれをビデオに撮ること。
これはこれ自体が目的ではないのですが、やはり自分がずっと始めたいと思ってきた挑戦への一歩です。僕には自分で歌を作って気持ちよく歌いたいという夢があるのですが、いかんせん恥ずかしがりなので、人前はおろか大きな声で歌を歌うことができないんです。でも、歌い始めなければ、いつになっても気持ちよく歌えるようにもならないし、自分の歌を作って披露する夢も叶わない。そこで、この機会に、この壁にも風穴を開けておこう!と思ったのです。

やり終えて思いましたが、この経験はとてつもなく大きかったです。自分が変わりました、ほんとに。

もともとできる人には何てことはないと思いますが、どんな形であれ、怖さを乗り越えてできた、というのは感動的でした。

こういう「これまでやりたかったけれどもできなかったことを何か一つやる」という機会を意識的に持てると、自分を新しい方向に展開させていくきっかけをつかむことができそう。そんな予感にワクワクしました。

こんな感覚は久しぶりです。よかった!