自分の中に道が見つからなくても

そろそろ受験シーズンも終わった頃。うまくいった人、いかなかった人、まわりでもいろいろな人の話を聞く。そんな中で、能力も気力も十分にあったのに、なんかやる気を起こせず、引っ込み思案になり、結局希望の進学先からかなり落として安全なところに手を打ったという人の話を聞いた。

なんとももったいない。

そう思ったが、でもそれは、もっと良い大学に行けたのに!(そうでないところに手を打ってしまった)というのでもったいないと思ったのではない。その人が本気を出せずに安全なところに引っ込んでしまったこと、その人が持っているのに活かせなかった可能性、それがもったいないと思う。

もちろん、「可能性」がすべて実を結んで結果につながるわけではないから、挑戦したら失敗していたかもしれない。それでも、体当たりでやってみたという体感は残る。それがこれからの人生にはより大事なことであると思う。

考えてみると、こういう話を聞くのははじめてではない気がする。能力も気力も十分にあるのにやる気を起こせずに引っ込み思案になってしまう人は意外と少なくないのかもしれない。

なぜだろうと考えるうちにふと思いついた。これは、ことによると今の世の中で盛んに求められる「自分を見つめること」の弊害なのかもしれない。

今は、あちこちで「自分がやりたいことを見つけろ」「自分がどんな人間なのか見極めろ」「自分の望む生き方をはっきりさせろ」などと言われる。この背景には、これまでの集団の中での調和を優先する価値観に代わって個性を尊重しようという流れや、変化が大きく不透明感が強い現代により自立的・独創的な人材が求められているということがあるのだろう。

何を隠そう僕自身も、自分の子どもたちに、「自分のやりたいことをとことんやれ」「自分を活かせることを仕事にしたらいい」などと言い、「自分が何をおいてもやりたいことは何だ?」と訊いたりもしている。こう言ってきたのは、周りの「社会常識」などに従う必要はない、「みんな」の価値観に縛られることはない、要領よく世渡り上手になることなど考えない方がいい、というつもりでのこと。端的に言えば、子どもたちを自由に生きさせてあげたいという思いからだ。

しかし、自由にさせてあげようというアドバイスも、現代のように目の前に広大な可能性が広がっている若者には、逆に不安を大きくさせてしまう部分もあるのかもしれない。好きなもの、大事なものは何かと繰り返し問われる。しかも既成の常識にとらわれずに自分の中にその答えを見つけなさいと言われる。それでかえって、自分の中にすべての答えを見つけなくてはいけないと焦る。ところが見つけられず、そんな自分(見つけるべき中身がない自分と見つけられない自分)に落胆し、自分は自分のやりたいことも見つけられない人間だと見切りをつけてしまう。そんなところに若者を追い込んでいるのではないかと思い至った。

自分が本当に好きなこと、自分が得意なこと、自分にとって本当に大事なこと、どれも自分のことだとは言っても、自分では意外とわからないもの。というのも、好きなこと、得意なこと、大事なこと、どれも人との関係の中で実際に活動することを通してわかってくることだから。

好きなことは自分が生まれ持ったもので、自分でわかって当然と思うかもしれないが、実は、好きかどうかはやってみなければわからず、たいていの場合何度も繰り返しやっている内にじわじわとおもしろみがわかってきたりする。

得意なことだって、自分の宝になるような能力のすごさは、自分ではわからない。本物の能力を持っている人ほどそうだ。能力を持っている本人にしてみれば、それはごく普通のこと。だから、自分の何がすごいかは、人の目を通してしかわからない。スーパーマンだって他の普通の人間と誰とも会わなかったら、自分がスーパーパワーを持っていることに気がつきもしない。そもそもその力自体が「スーパー」なのではなくて、普通の非力な人間に囲まれた環境での力のギャップが「スーパー」なのだから。

だから、若いときには、何が何でもこれが好きだとか、自分は絶対あれがやりたいとか、これは誰にも負けない自分の武器だとか、などということがはっきりとわからなくても無理もないと思う。安易に巷で流行の生き方をまとうのは良くない。自分のやりたいこと,やるべき事は大いに悩むべきだ。でも、自分なりの答えがはっきりと見つからなくてもいい。

そんな時は自分が信頼する人の意見を聞きながらとりあえず何かに全力で取り組んでみるといい。「全力で取り組んでみる」というのがカギ。それを外さなければ必ず自分の身になってくる。「自分の内的な理由」であることにやたらとこだわることはない。周りの言うこと、やることに惑うなと言うことは、すべて自分で自分の中に答えを探せということではない。

だから、自分が進むべき道がまだ見えなかったら、焦らず、自分を責めることもなく、目の前に転がってきたきっかけに全力で取り組んでみると道が開けてくるんじゃないかな。

モノか心遣いか

今日、昼食にも夕食にも弁当を食べたのですが、その弁当があまりに極端に違っていて面白かったので、その話をしたいと思います。

一体何がそんなに違ったのか。まあ、値段も違うと思いますが(片方はごちそうになったので正確にはわかりませんが)、もっと重要な違いを感じました。端的に言えば、それは味わったのが「モノ」か「気持ち・心遣い」かの違いと言えるでしょう。
 昼に選択肢がなくて仕方なく買った弁当は唐揚げとハンバーグが無造作な感じでゴロンと入ったもので、面白くもおいしそうでもないものでした。食べないとお腹がすいてしまいそうだったので買いましたが、食べる段になって何とも言えない灰色の気持ちになりました。
 こんな弁当を作って嬉しいのだろうか。作った人は食べる人の姿を一瞬でも想像したのだろうか。答えはどちらもノーでしょう。そんな、モノとして作られて、モノとして詰められたものを食べようとしていることが何かすごく殺伐とした感じで嫌だなあと思ったんです。
そして夕食の弁当。まずはご覧あれ。

13-03-15 春弁当

 入っているものがいろいろでおいしそう!ということもありますが、左上のちらし寿司は菜の花畑や桜の色合いだし、右上には桜の葉や花、桜の花びら形のかまぼこのようなものや、桃の若い実(緑色の梅のような実)、下の段も春を感じさせてくれる工夫や気遣いがたくさん詰まってます。
 これだけ春が一杯に感じられて(花粉もなく!)、気分も明るくなってきました。そして、こんな演出をしてくれた人たちの気持ちやこだわりが、なんかとても嬉しく感じました。
 いろいろな工夫や細かい手の入れかたを見つけながらおいしく味わったのは、品々の味もですが、それ以上にそこにかけられた手間や心遣いでした。
 心遣いが感じられることがこれだけ嬉しく感じられるのは、やはり我々の日常を取り巻くものが工業製品や大量生産品でしめられていて人の心を感じにくくなっているからなのでしょうね。

質問する力こそ育てたい

実社会の問題には答えは一つではない。答え方は無限大。したがって、質問をどのように設定するかでどのような答えが導かれるかが決まる。質問の立て方が洞察にとんだ面白い視点に基づいていなければ、洞察に富んだ答えは出てこない。

TEDxStanford – Tina Seelig – A crash course in creativity

答えを探すことばかりに躍起になると決まった形の問題に決まった形の答えを出すだけのルーチンにはまっていく。それは予め決まった場所で予め決まった規則に沿って起こる課題の解決ゲームに過ぎない。

まして、公式を覚えたりして速さを競ったりしていれば、本質的な問題解決からはどんどん遠のいていく。

そう考えると、公式化されうるものを素早く効率的に解く訓練ばかりに力が行きがちな従来の学校教育がいかに現実社会での問題解決から遠いか、改めて思う。変化の少ないときであれば、それもまだ役に立つところもあったのかもしれないが、今のように変化が速く大きいときは、学校での問題解きは守られた砂場での「問題解決ごっこ」でしかないだろう。

答えを得ることも大事だが、それ以上に、質問の仕方で悩め。今の複雑な世の中での問題は、まともに答えを探しても見つからないことが多い。問題を全く別の枠組みで捉え直して答えが得られる形にする、というような柔軟なアプローチが必要とされている。そんな時代の要請に応えるためには、質問する力こそ育てるべき大事な力。

二つの友

大きな変化は、一つの安定的な状態から違う状態への世界の組み替え。

そんな大きな変化と時は、人の間の緊張関係、人と自分の入れ替えを伴う。それまでの安定的状態を支え構成してきたもの・リソース・人々の多くと別れて、新しい状態を支え構成する人・もの・リソースを組み上げなくてはならない。

その過程で最も難しい要素が友なのだろう。

友には二通りある。状態を支える友と変革を一緒に生き抜く友。どちらも大切だけど、違った種類の友。

状態を支える友は、どんなに気があって、一緒にいてしっくりきても、可変要素で付き合いは一時的。なぜなら、その友と共有するのはある一時点の状態だから。特に変化をし続ける人生では状態の移り変わりと共に「状態の友」の移り変わりは必然。「状態の友」は、辛いけどちゃんと入れ替えていけないと、変化の環境を保ちにくくなってしまう。

変革を共に生き抜く友はビジョン、方向性を共有する。こういう友との付き合いは長くに亘って大切であり続ける。この友とは、状態が変わっても、不安定になっても一緒に走り続けられる。共有するモノが方向性であって、ある特定の状態ではないから。方向性を共有する友とは今離れていてもいずれ会えるかもしれない。「変革の友」は、自分の方向性を維持するのに大事な役割を負ってくれる。簡単に手放してはいけない。

変化・進化を絶やさず、でも軸をぶれさせずに人生を生きていくには、方向性、価値観を共有する違った種類の友を常に見極めていることが大切。