「置き手紙」カテゴリーアーカイブ

どうせ変わらない?自分と自分の可能性を疑う前に

自分のやるべきことは何か
生きたいのはどんな人生か
どうしたらそれができるのか
そのためには何が必要なのか
どのような戦略が必要なのか

一生懸命考える
考えに考え抜く

それを積み重ねてしばらくしてふと自分の状況を見てみると、
あまり大して変わっていない

どうしてちっとも変わらないんだろう?
まだ全然知識が足りないのか
自分には必要な能力・リソースが足りないのか
やっぱりそう簡単には変えられないのか

行き詰まりを感じ、焦りがこみ上げてきて
自分の熱意や能力に対する不安、不信が出てくる
夢がしぼみ、力が抜けていく

そんなことを結構繰り返してきた

でも、ふと思いついた
自分を、可能性を、自分の努力の成果を疑う前に、自分が本当に「行動できているか」確認しよう

夢が妄想になっていないか
– 本当の夢と、ないものを追いかける渇望が混在していないか

行動を起こせているか
会うべき人に会っているか
外に出て現場を見ているか
足を動かしているか、アクションを起こしているか
ゴールに向かって何かを作ってみているか
やったことを形にしてShipしているか

自分の行動を広げているか
新しい人に会っているか
新しい場所に行ってみているか

本当にやり尽くしたのか
会うべき人にすべてあったか
やれることはすべて試したか
可能な失敗をすべてやり尽くしたか

こうやって振り返ってみると、意外と行動が起こせていないことに気がついた
なかなか時間が自由にならないとか
どんな行動を起こせばいいか、まだ発想力が貧困だとか
そんな問題はあるのだろうが、十分行動にできていないことは明らか

とすれば、それは自分の能力やリソースや可能性や運などのせいにして、自分はダメだと考えるのはお門違い

自分や自分の努力を疑うのは、やることをやってから
それまでは、安易に自分や自分の努力を疑うことはやめよう

そう決めました。

自分も心当たりがあるという方々、頑張りましょう!

変化に適応することの難しさ

変化が起きているときに、それに合わせて進化していくのは意外と難しい

世界が変わったら、世界観を変え、新しい決断をすることが必要

それは、理屈では皆分かっていることかもしれない

でも、問題は、世界が変わってきていることに気がつけるか

周りの景色がちょっと前とは似ても似つかなくなって、
従来の生き方、やり方を続けることが日に日に難しくなってきていても、
気が付きたくなければ、世界の変化には結構気づかないもの

変化に気づくべき時に気づけるか

それは、変化を想定し、変化を受け入れる用意があってはじめて、気がつける

「甘さ」を失わない覚悟

幸せ、嬉しい、ありがたい、みんな優しい!と思う経験に慣れるのは大事なこと。

慎重派の人たちは、そんな「甘い」状況に慣れたらロクなことがない、というかもしれない。周りに甘い期待を持っても、結局期待は裏切られ、傷つくだけだから、世間は厳しいと思って期待していない方がいい、と。

確かに、そうして人に頼らなくなれば傷つきにくくなるかもしれない。そして、そういう人は側からは強い人に見えるかもしれない。

でも、そういう「冷たい世間」に適応した人ばかりになったら、その嫌な「冷たい世間」が現実になってしまう。

傷つくことを恐れて身構えて、硬い反応を返す人たちは、その彼らの恐れ、そこからくる硬い過剰反応が「冷たい世間」を作っていくことに気がついていない。

僕らは自分はあくまで、すでにある状況に反応しているだけ、自分は何もしていないと思いがちだが、それはケンカを始めた子供たちが相手が叩いてきたことしか言わないのと同じ。

何かに反応してやったことだとしても、自分が世の中に作り出す行為であることに変わりはない。

冷たい世間を前提に行動していれば、周りの人はだんだんそうなっていく。犯罪者のように扱われれば、人はだんだん犯罪者のような気待ちになっていく。同じように、周りの人を「冷たい世間」のように扱えば、周りの人はだんだんそういう扱いに沿った行動を返してくるようになる。

だから、幸せ、嬉しい、みんな優しいのが当たり前の世の中をつくり出したければ、期待を裏切られる恐れや傷つけられる痛みと戦いながらも、幸せや優しさを当てにする「甘さ」を持ち続ける。その覚悟がいる。

一人ではなかなかその強さを維持するのが難しいけど。

できることからではなく、やるべきことから

ステップとしてはできることからやるのは大事。でも、目標はできることを基準に考えたくない。

自分の生き方を、今の自分にできることを基準に考えると、どんどんショボくなり、ワクワクもしない。自分が成長しないことを前提にして未来を今の延長線上に引きずり下ろしてしまうから。

本当にやりたいことから考えよう。
今の自分には届かない目標だって、いやそんな高望みだからこそ、全力が出せる。

背伸びしたり、人と力をあわせたり、届きそうにない目標だから、身体も頭もフル回転させられる。

今の自分の枠外で考えること。これがカギだね。

価値を創り出すとは予想を裏切ること

話であれ、行動であれ、相手の予想の範囲内のものは安全。

人に怪訝な顔をされることもないし、悪印象を与えることもない。

その代わり、人の印象に残ることもない。

聞いたとたん、見たとたんに、ああ、そういうことね、と片付けられるか、流される。

その人が元々持っていたものに何かを足すわけでもなく、ひっくり返すわけでもないのだから。

でも、予想外の話や行動は、危ない。

相手がどう反応するかわからないし、注意を引いてしまい逃げ隠れできないから、批判や嘲笑の標的になりうる。

でも、だからこそ、予想外の話や行動には価値がある。

受け手にとって、予想外の話や行動に出会うことは奇跡。

それまで知ることも気がつくこともなかった喜びや、感激や、驚きや、欲求に気がつかせてくれるのだから。それは、自分でもほしいことに気がつかなかった贈り物をもらうようなもの。

価値のある行動の裏側にはリスクを冒す覚悟がある。
リスクを冒したから価値が生まれるわけではないが、
リスクを冒さなければ価値が生まれることはない。

価値は、消費する以上に生み出していたい。

そのためには、いつまでも「あぶないオジサン」でいつづけなきゃ!

可愛げのある人

いくつになっても可愛げのある人でありたいと思う。

自分も可愛げのある人にひかれるし、可愛げのある人とは一緒にモノづくりができる気がするから。

じゃあ、可愛げがある、ってどういうことなんだろう。

「可愛げ」をつくる要因はいろいろあるんだろうけど、その中核は、勝とうとしていない、ということなんじゃないか。勝とうとするのは、他の人からの意見かもしれないし、他の人の運や境遇かもしれないし、他の人の容姿や強みかもしれない。

もちろんただただ負けて、自己否定に走ってしまうのはよくない。でも、いつも勝とうとしていると、周りや他の人に見られる良いところ、幸運、うなづける意見、全てが打ち勝つべき対象として感じられてしまう。

そうなると、自分がいいな、うなづけるな、と思うことであればあるほど、打ち勝ちにくい脅威として感じられてしまう。羨ましくなってしまったり、納得してしまったら負けだから。

そして勝ち目がなさそうだと、対象を否定したり、攻撃するしかなくなる。

そうやって、いいなと思うことに対するネガティブな行動が起こる。それがポジティブがネガティブに変わる瞬間。

「優等生」として成功してくると、ものごとを勝ち負け事で捉えて勝とうとしてしまう傾向が強いようにも思う。

「優等生」は勝ち方をよく学び、勝つことの楽しさを多く体験している中で勝ち負けのゲームに過剰適応してしまいがちなのかもしれない。合わせて、自分が感じた勝つことへの賞賛の繰り返しと、負けた人への仕打ちを見る中で、負けることへの恐怖も持つようになるのだろう。

しかも、負けることが少なければ少ないほど、負けることが怖くなってしまう。負けることの恐怖から抜け出るのは早いほうがいい。

楽しく負ける、勝ち負けにとことんこだわることはしないというのが、人とのつながりを豊かにしていくひけつかもね。

まず共感から

世の中の何か、人との間の何かを変えようとするときに、他の人を理解できてはじめて前に進むことができる。

そして、他の人を理解するには共感がカギになる。

共感とは、同情することではない。人が取った行動を、その背景にある現実認識からスタートして見てみる、ということ。

人は腹が立つことや意味の分からないことすることがある。でも、その理由が、その人たちが「バカだから」とか「悪意に満ちた奴だから」であることはほとんどない。

人が自分に理解できない行動を取る理由を、その人がバカだから悪人〜理解できない人間〜だから、と考えることは、自分にはわかりやすく簡単な説明ではあるが、その人の頭と心の中をブラックボックス化してしまい、理解しにくくしてしまうことになる。

相手の頭と心の中がどうなっているのかより正確にわからないと、どこ部分が変化のための鍵になるポイントかわからず、何に働きかけたらいいのかがわからない。

人というのは、知っていること、信じていること、持っている価値観、満たさないではいられない欲求、などでは違っていても、その上のロジック、結論の導き方はそうとんでもなく違うものではない。まして、同じ文化の中で育ったならばなおさら。

だから、もし改善、解決への一歩を目指すなら、信じらんない!とんでもない奴!と憤慨するところを越え、良い悪いの判断をとりあえず止めて、相手の意識空間に入ってみることからはじめてみるというのはかなり有効。

「なるほど、そういう状況であればそういう行動を取ってしまっても無理はないか」と思えるところに立ってみると相手の行動がどこから来ているのかが見えてきて、相手への働きかけのポイントも見えてくるんじゃないだろうか。

皮肉なもので、相手への働きかけの可能性が絶望的に思える時ほど、相手への共感が働きかけの近道だったりする。

多くのものがそうであるように、最も難しそうな道に打開策が隠されているらしい。

Inspired by: Seth Godin’s blog “Empathy”

自信は価値ある行動の上に

自分を信じることは大事なこと。

単に何となく気分が良くなるからとかではなくて、人に伝えること、新しいものを創り出すこと、何かを世に問うこと、すべてが自分を信じることから始まるから。

でも、それが難しい。

セス・ゴディンのブログで良いことが書いてありました。

「自分を信じろ」というアドバイスをいくらもらっても、「自分を信じよう」といくら自分に言い聞かせても、確信は得られない。

自信を前借りしてそれを基盤にこれからすばらしいことをやっていけるに違いないと力むよりも、むしろ、行動を通して自分に対する確信を築き上げていく方が現実的。

まだ自分に自信が持てなくても、自分が本心から価値があると思えることをまず実行する。

ほんの小さなことでもいい。

そして、自分が価値あることを実行し、大切に思えることを生み出せたことをしっかり実感する

その上で、次の価値あることを実行する。

そうやって徐々に大きな価値を生み出す行動を重ねる。

そうして積み上げた行動を振り返ってみれば、自分の力を確信できるようになる。

 

次世代の中に育てたいもの

デザイン思考を教育に生かす取り組みがないかとネットを検索していたら、ありました。

Design For Change というインド発の取り組み。デザイン思考の枠組みを土台として、子どもたちの中に「自分たちにできることがある」「自分たちに起こせる変化がある」という意識を育てようというプログラムです。こちらがそのサイト:

http://www.dfcworld.com/

この取り組みは世界のあちこちに広がっているようで、日本でも始まっているようです:

http://designforchange.jp/

そこに掲げられている目標は、僕が力を注ぎたいと思っている人育てと重なります。

若い人、子どもたちに、自分たちを取り巻く世界を意識し、積極的に知り、そこで感じた違和感に対して、自分たちにも何かできることがある、という自信を持たせ、行動を起こせる安心感と意欲を持たせてあげたい。

自分たちの働きかけで状況が変えられるという自信があると、人は周りの問題に対する関心が強くなり、自分たちが行動を起こさなくてはという責任感や、状況をよくしたいという気持ちも自然と強くなる、そんなもんじゃないでしょうか。

楽観的すぎ、むしろ脳天気な考え方なのかもしれないけれど、その可能性を信じたいと僕は思っています。

どんな先進的な理論や問題解決手法でも、一つの枠組みを型どおりに当てはめて理解・解決できるほど世の中の問題は単純ではないです。だから、理論や手法をいくら教えても、その効果は限定的。

大事なのは、実態をよく見て人の話を良く聞いて理解する力と、自分が状況を変えられるという自信。それこそが次世代を担う若者、子どもたちの中に僕が育てたいと(僭越ながら)思うものです。

測ることは大事:ちゃんと大事なことを測っていれば

自分が大事にしたいこと、本当に向上したいことは進歩を測るといい。測ることで積み上げていく動機付けも強まり、継続もしやすくなる。

確かに、それほど好きでもないウォーキングでも、歩いた距離が積み上がっていくのを記録していると、続ける意欲が湧く。

でも、測ることの効果は逆にも働く。

測ることに闇雲に、しかも安易にこだわると、単に測りやすいものを測るようになる。

売上げ数、生産したモノの数、発表論文数、論文が引用された数…

こうした数えられるもの、数えやすいものも、参考指標の一つとして使う分には良いかもしれないが、その数値で賞罰を決めるなど、数字自体に大きな意味を持たせるようになると、当然数値が一人歩きし始める。

数値自体が目的となり、数値を生むプロセスの質を殺しても数値だけを上げようとするようになる。だましてでも売る、質が落ちても多く作る、盗作してでも発表論文を増やす、証明できなくても発表して話題と引用を取りに行く…みな同じ。

測ることは大事。

でも、測るものを間違えてはいけない。

やっかいなことに、本当に大事にすべきこと、本当に測るべきこと(顧客の感謝や喜び、チームのやる気や士気や信頼度、研究の活発度、研究の波及効果)は測りにくいことが多い。

でも、だからといって、測りやすいもの、数値化しやすいものを測りにいっては危ない。それは、単に大事なものを測り損ねるだけでなく、人に間違ったものにこだわりを持たせてしまい、大事にすべきことを壊してしまいさえするかもしれない。