本物であること

現象を理論化、モデル化して捉えることは、特に全体像や大枠の体系性を捉える上で有効だけれども、あくまで「本物(authentic)」の感覚にこだわることを忘れない。「本物」は具体的な時と場に埋め込まれている。その現場にあるちょっとした気づき、違和感、手触りを大切にして、その引っかかりを常に手放さない。

「本物」とは、建前的な正しさとかではなく、その場の直の肌感覚。この「本物」感覚をないがしろにして、自分の頭の中だけで理屈をこね始めると、目の前にあるものを見なくなり、自分の理解に都合の良い、自分よがりのまやかしの枠を作ってはめてしまうだけ。そうなると、いくら真実を探ろうと問い詰め突き詰めてみても、自分の作った疑似世界の中の堂々巡りになってしまう。

言うまでもなく、「本物」を感じ取る肌感覚を育てることが何にもまして大切。やっかいなことに、この「肌感覚」は理屈ではわからない。そもそも、理屈を越えた本物感覚が「肌感覚」なのだから。禅問答のようだが、「肌感覚」は肌感覚で覚えるしかない。「本物」に触れて感動させられる経験が多く重なって体にしみ込む中で徐々に育つ。

「本物」は感じ取るものではあるけれども、誰もが同じように感じるわけではない。同じ色を見たときに、赤だ、緑だというところは人と人の間で一致しても、それが好きか、感動してしみ込んでくるかどうかは人による。それと同じで、経験、見たもののしみこみ方も人によって違う。そして、ピンとくる「本物」も人によって違う。だから、「本物」感覚は簡単にパターン化できるようなものでもないし、まねできるものでもない。人の肌感覚をまねしようと思ってもできない。自分の「本物」感覚は自分の身体で感じ取り自分の中で育てる。

自分の人生は自分が「本物」を感じ取れる領域で磨く。「本物」を感じられないところで磨こうと思っても、借り物の基準や借り物の目標で自分の人生を縛ってしまうことになり、自分の人生が自分から剥がれてしまう。

 

本物にこだわって生きよう。

「本気」の約束

創られたものの形としての美しさには、時と空間を超えて人を動かす力がある。初対面の人でも、何の前置きもなく、いきなり心を鷲づかみにする魔力がある。作品の「見方」や理屈がわからない人も思わず振り向かせるカリスマがある。

だから、ものづくりには、技を磨き、形としての完成度を高めることも大切だ。

でも、ものづくりでの価値は形の完成度だけでは語れない。特にパフォーマンスについては。

そこでは、形としての完璧さよりも、その人の心がどれだけ宿っているか、その人の本気がぶつけられているかが、人々を動かし、かけがえのない価値を生む。形の完璧さばかりを追い求め、突き詰めると創るというプロセスそのものから意識が剥がれてしまい、心が入っていないカラになってしまうことさえある。

そのことが、セス・ゴディン (Seth Godin) のブログで非常にうまく語られていた:

もし、「生み出せる最高のもの」を求められたら、たぶん、今までに創ったことがあるもの、やったことがあるもの(例えば先週創ったものと同じもの)を見せようと思うだろう。「最高のもの」を求めるということは、以前すでにやったことを繰り返してやることを求めていることなのだ。

しかし、もし人が求めているものが、その時その場にいる「あなた自身」だったら、完璧じゃない。完璧ではあり得ない。あなたが生み出すものはただ以前とは別のもので、その場で創られた生のものであるというだけ。

人に向き合ったその場その場で出来ることは、あなたの本気を見せ、火を付け、大きく跳躍すること。本気で身体を張りながら、同時に完璧であることはできない。
本当の価値を生む人たち(アーティスト)に対してファンやお客さんが求めるのは「最高」や「完璧」ではなく、「本気」なのだ。

ジャズの演奏に「最高」や「完璧」は言えない。だからこそ面白い。
If someone wants your very best version, that probably means that they’re going to get the same version that you’ve done before, the same as the best version you produced a week ago. If you want the best, it also means that you’re asking someone to repeat what’s come before.

On the other hand, if they want you, right here and right now, it won’t be perfect. It can’t be. It will merely be different and real and in the moment.
The opportunity in any given moment is to share your truth, to light a spark and to leap. But you can’t do that at the same time you’re being perfect.
Artists end up with clients, customers and supporters that don’t demand the best. They merely demand the truth.
There is no best jazz performance. That’s why it’s interesting.

 

「本気」の約束と「本気」への期待・信頼でつながる関係を増やして、その中で生きていけたら本望だな。

美しい時間が創られる場所

美しい時間というのは過ぎてしまった時の中に多く見つかる気がする。

その時間がもう遠く離れて戻っては来ないという寂しさもあるのだろうが、経験・感覚・思いというものは、概して具体的な空間と時間に囲まれた場(「今」)を離れることで純化される。美しい時間、美しい思いは、それを生んだ場と離れたところに虹のように映し出される。

でも、虹を探しにふもとに走って行ってもどこにも実体としては見つからないように、「美しい時間」「美しい思い」も、それが感じられるところに実体はない。

虹は楽しめばいい。でもそれ自体を追いかけるな。

 

美しい時間・思いの実体は、いつも窮屈な空間や時間に囲まれ、喧噪と汗にまみれたその場、「今」、にある。その砂埃の中で美しい時間・思いの原石がつくられる。

美しいものを創る人は、不完全な、苦痛に囲まれた現実の場の中で、それと戦いながら、美しい原石を生み、心を尽くして磨いている。

それを思うと、創られたもの・時間の美しさ以上に創る過程につぎ込まれた命に感動する。

今の僕にとって大切なこと

自分が大切に思うこと、それによって大きな喜びと幸せを感じること、は生きていくうちに変化するもの。

今の僕にとって大切なことは2つ。

一つは、人とつながり、活かし活かされる関係の中で、自分を超えるべく力一杯がんばり、他の人のがんばりを支えること。

人は活かされる場、役割を与えられることで力を発揮する。どんな人でも必要とされたいもの。役に立てる、という気持ちが持てる力を引き出し、自分が思っても見なかった能力を発揮させる。自分の能力は自分自身で発言させることは意外と難しい。他の人から求められて目覚め、育てられるもの。

個々の人間が昨日までの自分を超えようと努力を重ねることでグループも成長する。グループが個人を育て、個人が育つことでグループが育つ。そんなプロセスを通してきっと面白い展開がある。

 

もう一つは、この世界には驚くべきこと、感動すべきことがたくさんあるというワクワク感。

世界のワクワク感を増やすために、感動する心を育て、感動できる環境をつくり、感動をもたらすもの、知的好奇心を突き動かすものを創り続ける。

自分自身もたくさん感動し、それを自分の中で純化して、新たな感動を生む原石にして世に生み出していく。

充実した人生をどう作るか

人生が充実度を計ろうとするとき、喜びがあるか、幸せか、意味を感じるか、価値があると思えるか、などがよく引き合いに出される。確かに、「喜び」「幸せ」「意味」「価値」が大きい人生は充実したものだといえる。

でも、どうしたら充実した人生を送れるかと考えるとき、「喜び」や「価値」自体を追い求めると迷走してしまう可能性がある。というのも、「喜び」も「幸せ」も「意味」も「価値」も、満たされた人生の結果としてもたらされる兆候であって、それ自体が満たされた人生を作る、保障する要素ではないから。

一時的で表層的な感覚として「喜び」や「価値」は他のことで得られることもある。だから、何を通して「喜び」や「価値」を得るかにこだわっていないと、「喜び」や「価値」を感じるために手段を選ばず、なりふり構わず行動してしまい、一時的な快楽追求や、表面的な成果・実績追求をするようになってしまう。

本当に充実した人生は、自分にとって大切なことを知り、それを大切にする時間と活動を積み重ねていくことで築かれていく。

いつかどこかの君への置き手紙

午後の僕から午前の君へ

「置き手紙」の記事は、僕がなんらかの形で力になれる人たちに捧げます。

僕は人の力になること、人を元気づけることが好きです。でも、ずっと自分の言えることにはたいした価値がないであろうとか、他の人もいっているだろうとか、人を励ますなんておこがましいとか、思ってきました。

でも、子どもを育てたり、悩む若者の話を聞いたり、相談に乗ったり、一緒に考えたりしているうちに、僕にも力になってあげられる人たちがいるということがだんだんわかってきました。

同時に、僕の人生も40年の半ばを越えた頃から、この世での自分の時間の終わりを意識するようになりました。長く見積もっても、これからは、生きてきた時間よりも生きていく時間の方が短くなっていきます。その中で、できることを一つでも多くやっておきたいと思うようになりました。

これは、僕が自分の人生を生きてきて感じたこと、考えたことを、いろいろな局面で迷ったり、悩んだり、落ち込んだりしている人への応援の気持ちを込めて、書きとめるものです。悩みを越える足しになればもちろん嬉しいですが、ここに書くことは「教訓」や「アドバイス」のような立派で偉そうなものでもなく、まして、悩みの「答え」ではありません。

人生の悩みは結局のところ自分自身のもの。他の人が答えを与えられるようなものではないし、悩むこと自体が自分の人生ならではの醍醐味とも言えます。とはいえ、一人で悩むことはありません。他の人の経験や悩みを聞くことで、少し冷静に考えることができるようになったり、励まされることがあるでしょう。

このブログは、そんなふうに、あなたの悩みに寄り添い、もう一歩先に進む力となりたい、という気持ちで書いています。本当は、あなたが悩んでいるその時々に、気持ちのいい椅子にでも腰掛けて、話を聞き、僕の経験なども離しながら一緒に考えてあげたいと思うけれど、その時にいつでも僕がそばにはいられないでしょう。だから、その時のために、あなたに寄り添って一緒に考える僕をブログの形で残しておこうと思い、書き始めました。