目の細かい時間を生きる

子どもの頃、若い頃は、一日一日、一年一年が長かった気がする。細かいことすべては到底思い出せないけれど、どの年もいろいろなことが詰まっていた気がする。

中学や高校なんて3年ずつで、何とも慌ただしいと思えるが、比較的記憶が残っている高校時代を振り返ってみると、どの学年での記憶も長い時間であったように思える。

なのに、大人になってみると、5年や10年があっという間に過ぎてしまうような気がする。そうした時間の流れの速さは、人生が軌道にのって生活が安定してくるとなおさら。

日々の生活がルーチン化され、先の見通しもついてくるからなのだろう。代わり映えのしない平坦な土地をまっすぐに延びるハイウェイを走っているようなものなのだろう。そんな日々の中では一日一日が渾然一体となって区別がつかなくなる。

そんな時間の流れ方があるとき大きく変わった。子供ができたときだ。自分だけでは数日も生き延びられそうもない様子で生まれてくる赤ちゃんが、目まぐるしく成長し、いろいろな段階でさまざまな成長痛に悩みながら、変化し育っていくのに寄り添っていると、時間の進み方が一気に遅くなる。一瞬一瞬が大きな変化の可能性と緊張感をはらんでいるから。

僕らに与えられた時間は物理的には皆平等。誰にとっても一時間は一時間、一日は一日。でも、そこに詰まっている「意味」は瞬間瞬間への向きあい方で大きく変わる。特別なチャンスとして意識して向き合う一瞬がどれだけ多いかで、時間の織りが全くちがう。

変化に富んだ時間には多くの「意味」が詰まっている。変化がなければ、新しい意味は生まれない。一瞬一瞬に正面から向き合い、働きかけて、目の細かいいい時間を生きていきたいよね。