「なぜ」を問い続ける

いろんなことを「なぜ?どうして?」ってとことん問い詰めながら生きている人って結構少ないですよね。

子供の時は誰でもよく「なぜ?ねえ,どうして?」と訊きつづけるものです。でも大人になって、年をとっていくと「なぜ?」と訊くこともなくなっていきます。子供の時は好奇心の塊で、「ものがわかっていない」ので、とにかくなんでも「なぜ?」と訊きたくなる。それが、大人になって「ものの道理」がわかってくると、いちいち「なぜ?」などと思わなくなる。だって、「それはそういうもの」で、「当たり前のこと」だから。

この「当たり前」、人間にとってすごく大事なんですね。「当たり前のこと」は我々の身の回りの中で、心配したり気にかけたりしなくてもいいことなんです。明日の朝も太陽が東から昇ること、明日もいつも乗る電車が来ること、などなど。我々の日常はこの「当たり前」で満たされ、そのおかげで毎日一寸先の闇におびえることなく「いつもの一日」を送ることができるわけです。

「そんなん当たり前じゃーん!知らないの?」

という表現に表されているように、「当たり前」は「この世の真実」のように感じられたりします。ただ、この「当たり前」、
よく考えてみると実は結構アヤシイ「真実」なんですね。

たとえば、「7:54の電車が7:54に来た!–あったり前じゃーん!」。

そうかなぁ、朝の上りの中央線は時間通りに来たためしがないけど…。

「パソコンはキーボードとマウスで使う–当たり前」、
「ケータイでの文字入力は数字キーを複数回押して文字を選択してやる–当たり前」。

確かにどのパソコンも、どのケータイもそうだけど。
でも、それって、そうでなくてはならないパソコンやケータイの「真実」?

実のところ、「当たり前」って、すごく平たく言うと、ただの思いこみ、思考停止ルーチンなんですね。もちろん、たいがいは同じパターンを何度も経験して、それがこれからもずっと続きそうだという印象を受けたうえで「当たり前」になるので、思いこみで当てにしても通常はあまりひどい目には遭わない。でも、そうした「当たり前」のはずの当てが外れることがしょっちゅうあることからもわかるように、結局「当たり前」は「○○であるはず」
という思いこみに過ぎないわけです。

大人になっても「なぜ」を問い続けられる、そういう人は日常の思いこみに身をゆだねるのを拒み続けるこだわりと勇気を持ち続ける人なんでしょうね。自分の目の前の物事を「それはそういうもの」で片付けず、「なんでそうなんだ?」とつっこみを入れ続けるのは、物事のあり方に対するこだわり、好奇心でしょう。

そして勇気-「なぜ?」を問い続けるには勇気がいると思います。「当たり前」と考え「~であるはず」と思いこめば不安はなくなります。

しかし、「なぜ?」と問うことは、物事のあり方、起こり方を考え直すと言うことで、「当たり前」をご破算にすることになります。その意味で、「なぜ?」を問い続ける人は、冒険家であり、挑戦者であり続けられる人なんだと思います。

私もそういう意味でいつまでも若き挑戦者でありたいです。