測ることは大事:ちゃんと大事なことを測っていれば

自分が大事にしたいこと、本当に向上したいことは進歩を測るといい。測ることで積み上げていく動機付けも強まり、継続もしやすくなる。

確かに、それほど好きでもないウォーキングでも、歩いた距離が積み上がっていくのを記録していると、続ける意欲が湧く。

でも、測ることの効果は逆にも働く。

測ることに闇雲に、しかも安易にこだわると、単に測りやすいものを測るようになる。

売上げ数、生産したモノの数、発表論文数、論文が引用された数…

こうした数えられるもの、数えやすいものも、参考指標の一つとして使う分には良いかもしれないが、その数値で賞罰を決めるなど、数字自体に大きな意味を持たせるようになると、当然数値が一人歩きし始める。

数値自体が目的となり、数値を生むプロセスの質を殺しても数値だけを上げようとするようになる。だましてでも売る、質が落ちても多く作る、盗作してでも発表論文を増やす、証明できなくても発表して話題と引用を取りに行く…みな同じ。

測ることは大事。

でも、測るものを間違えてはいけない。

やっかいなことに、本当に大事にすべきこと、本当に測るべきこと(顧客の感謝や喜び、チームのやる気や士気や信頼度、研究の活発度、研究の波及効果)は測りにくいことが多い。

でも、だからといって、測りやすいもの、数値化しやすいものを測りにいっては危ない。それは、単に大事なものを測り損ねるだけでなく、人に間違ったものにこだわりを持たせてしまい、大事にすべきことを壊してしまいさえするかもしれない。

世界を変えることと征服することの違い

朝日新聞の土曜版に載っていた河原成美さん(博多一風堂・創業者) のインタビューが面白かった。

ラーメンを世界食にしたいという川原さんのことば:

{ラーメンが世界食と認められた時}すしにカリフォルニアロールが出現したように、{ラーメンの定義も}変わります。日本では、かん水を入れた中華麺を使っていないとラーメンではないと言いきれるが、世界中、どこでも手に入るわけではないから、その条件は通用しない。スープのだしも百花繚乱になるでしょう。

 外国人が自由な発想で、これが自分のラーメンだと宣言して店を出す。そこに現地の人が行列をつくり、商売が成り立つ。それが物珍しいことではなくなったとき、すしのレベルに手が届いたといえるでしょう。

これを読んだときに、この人はラーメンで世界を変えたいと思っているんだな、と思った。

これは、ラーメンで世界を征服したいと思っているのとは違う。

「ラーメン」を形で定義して、決まった味、決まった具材で構成された料理として固定し、それをそのまま世界に広める。世界の人に、決まり事としての「ラーメン」を受け容れさせる。それがラーメンによる世界征服。

世界征服は、自分を変えず、自分を広げ、世界に押しつける。

川原さんは、ラーメンを狭く固定的な料理として捉えるのではなく、外国の人との出会いの中でラーメンが変容することを受け容れている。ラーメンの外形的なかたちは「ラーメン」の本質ではないと考え、むしろ食事への一つのアプローチと捉えているのだろう。

おもしろい。

世界を征服するのではなく変えるには、異質なものとの出会いの中で自分が変容することに対してオープンでなくてはならない。逆説的に聞こえるが、相手の中での本質的な変化はお互いが変化し合う相互作用でこそ起こるんだろう。

変わらないために変わり続ける

「変わらないために変わり続ける」

(河原成美 <博多一風堂・創業者>)

大事なことは守りたい。
大事なことに関してはぶれずにいたい。

守る、ぶれない、というと、頑なに変わらないでいるべきだと思ってしまいがちだけれども、変わることを拒んでいるとき、守っているのは自分だけ。

大事にしたいのがもっと大きいものだったら、いつも自分が柔軟に変わり続けていないと、守り切れない。

恐れは創造力の敵

恥ずかしさを含む恐れは創造力の敵。
創造的な力を骨抜きにしてしまうから。

我々はだれでも創造力をもって生まれてくる。

創造的な力は自分が授かった「自分らしさ」そのもの。
幼いときは気兼ねなく、恐れることなく「自分らしさを」表現する。

しかし、「自分らしさ」を表に出すことに対する批判的態度や、まだか弱い「自分らしさ」を傷つけられる経験などを積み重ねる中で、人は徐々に自分の中に備わる「自分らしさ」、創造力を表現することを恐れるようになる。

自分らしさ、創造力を押しつぶす恐れを越えるためには、自分の創造性に沿った行動を一つでも多く積み重ねて、恐れを形骸化するのが一番。

そのためには、自分の中の自分らしさ、創造力をたきつける。

そうすることで、表現したいという内的圧力を上げ、中から自分を超えるためのエネルギーを爆発させよう。

報酬にあわせて仕事をする?

「報酬並みの仕事しかしない人は、
仕事並みの報酬しか得られない」

どこで見たのか忘れましたが、ふと開いたメモに見つけたことばです。

はっきりとは言っていませんが、報酬の不十分さから自分の力を出し惜しみするような人は、結局自分の本当の力を認めてもらうこともそれに見合った報酬を受けることもない、というような負のスパイラルの話ですよね。

理屈で言えば、報酬が高ければ仕事の質も高くなるわけだから、仕事並みの報酬でも悪くないはずですが、そうはいかないのが「報酬」の性質。

報酬は金銭的なものであれ、感謝や社会的認知のようなものであれ、必ず「後追い」(時間的に後に起こる)で、その大きさも、少なくとも最初は、報酬対象の行為の総合的な価値の一部しか反映されていません。つまり、何か価値あることをやったとしても、その行為への報酬はすぐに得られるものではなく、後に得られる報酬も決してその行為がもたらした価値をそのまま反映した大きさにはならないのが常です。

価値を生む行為とそれへの報酬の間のタイムラグとサイズ上のギャップは、従来とは異なった新しい試みでは、ことのほか大きくなりがち。

報酬とはそういうものなので、それに照準を合わせて自分の仕事を調整すると、その仕事の成果は常に遅く、望ましい価値よりも低いものになってしまいます。

自分の力を出し切らないようなこと、したくないですね(働き過ぎて疲れているときなど、気持ちはわかるけど)。あくまで自分の生き方を基準に仕事をしていきたいです。