同じ方向を向いて覚悟するグループを既存の組織内で作れるか

なにか本当に大きな変化、抜本的な改革をするには、自分の慣れ親しんだ安心ゾーンから出て考え、行動しなくてはならない。それは自分自身を今までに無い境遇や危険にさらすというリスクを負っている。それだけに、やり始める覚悟と、やり遂げる努力が必要。

しかも、それが一人ではできないことであれば、グループ全体が同じ方向を向いて、同じ修羅場を通る覚悟が必要。

でも、既存の組織の中で新たに同じ方向を向いて同じように硬い覚悟を決めるということは至難の業。組織はプロジェクトチームではなく、すでに人ありき。そこでそもそも思い切った改革や、新しいことなどできるのだろうか。

自分は信じない、人を信じる

「自分は信じない、人を信じる」
ジブリ・鈴木敏夫プロデューサーのことば

「自分を信じない」というのは自分にしっくりくること、自分に当然だと思えることに安住しないで疑ってみるという態度。

むしろ、信頼する人に「だまされてみる」。信頼する人のすすめ、無茶振りに乗ってみる。

自分の壁は自分では越えにくい。

「壁」というのは、能力自体と言うよりも、ものの捉え方、行動・思考パターン、内的な精神的リミッターなど、自分の行動と思考の習慣によって形成されているもの。だから、単純に「越える」といっても一筋縄ではいかない。自分の習慣は意識しにくいから、それを変えよう・越えようと言ってもどうやっていいかもわからない。

そこで突破口の一つとなるのは、状況や他の人からの無茶振りに応えるためになりふり構わず全力で戦うこと。

自分を信じずに人を信じるというのは、今自分がしっくり来ている状況、収まっている安住の場をあえて押しやろうとする、自分と戦い続ける姿勢。

人を信じて生きていこうとするときには、一緒に仕事をする人、一緒に生きていく人の選び方がことさらに大切。

本当にこちらを信じて本気の無茶振りをしてくれる人と一緒に生きていければ、自分の想像を超えて成長しながら生きていけるんじゃないかな。

人生の選択を確率で考えていくと

進学や就職などで人生のステージがさまざまに変わることが多いこの時期、人生の中での進む方向の選び方や決断の仕方について改めて考えてしまう。

可能性、確率を基準に人生の選択をしていくと、確率が支配する領域で生きることになる。

確率というのは、入れ替え可能な「同じような」人たちのグループ中での実現割合を計算するもの。

合格確率で大学を選ぶ。採用確率で就職先を選ぶ。

そうしようとすると多くの人が採るような選択肢の中でしか選べなくなる。

とんがった大学、とんがったキャリア、とんがった生き方は、どれも確率で言ったら手に入れる可能性が非常に低い。

だから、自分ならではの生き方がしたいと思ったら、確率で道を選ぶのはやめた方がいい。

 

変化のリズム

変化や方向転換も習慣。

定期的に変化させるリズムを作れば、タイマー仕掛けのようにカラダが疼いて変化をしたくなる。

できるだけ安定を保ち変化は必要に応じて、と思っていると、変化を起こすのが特別なことになり、心にハードルができる。変化自体を起こす前にハードルを越えるためのエネルギーが余分に必要になる。

フットワークを軽くして変化を起こしやすくするには、変化のリズムを作るのがいい。とにかく定期的に変える、変わることを前提に動くようにする。

[読]『自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる技術』

自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる技術 (朝日新書)

下園壮太 朝日新聞出版

これはタイトル的に本屋で目にしてもまず手に取ろうと思わない本だけれども、割とよく読んでいるブログで取り上げられていてちょっと引っかかりがあったので読んでみた。

特に気になったのが以下の引用:

なぜかイライラしているし、仕事に意欲を持てなくなってしまった。

このようなケースは、表面的には「生きがい」の問題のように見える。

しかし、多くのクライアント(相談者)を支えてきた私には、生きがいの裏に潜むエネルギー問題が見えてしまう。エネルギーの使いすぎ、つまりムリな状態を続けたことで、気力が低下し、生きがい問題として表れているケースが非常に多いのだ。

読み終えての感想は、読んで良かった。

自分の経験からなんとなく持つようになった感覚が明確に意識されるようになった。

うまく集中できない。気力がない。いいアイデアが浮かばない。明るい展望が開けない。めざすべき将来像が見えない。といった「スランプ」に陥ることが僕にはすくなくない。

そんな時、以前は、どうして自分の創造力はそんなにショボいのか、気力が弱いのか、見方が後ろ向きなのか、などとよく自分に詰問していた。でも、いくら自分に詰め寄って叱咤しても気分が腐るだけなので、あるときからそれをやめることにした。何となく自分を甘やかすようで抵抗もあったが、自分で自分を潰してもしょうがないと思うに至った。「自分」は他の人と差し替えられないし、どんなにダメなやつでもこの人にがんばってもらわなくてはならない。だったら、ダメなやつでもダメなりの最大のパフォーマンスを引き出せるように応援した方がいいと思ったから。

そう思うようになってからは、集中できない、気力がない、いいアイデアが浮かばない時も、まあそれは一時的で、元気が出てくれば自然とうまくいくようになるさと思える余裕が少し出てきた。そうやって大きく構えていると、実際に元気になった翌日には不思議なくらいアイデアが出たりした。そんな小さな成功体験を通して、「スランプ」も一時的なもので、疲れているのが原因だろうと思うようになってきていた。

なので、この本で言われていることはすごくしっくりきた。

集中できない、気力がない、アイデアが浮かばない、将来展望が見えない〜こうしたことは「生きがい」や「性格」や「世界観」などといった哲学的、精神論的問題と考えがち(本人も周りも)。でも、それは単に気力・体力的に限界に来ていることが原因であることが意外と多い。

「生きがいがないから、意欲がなく、だから元気がない」よりも「疲れているから、意欲がなくなり、だから生きがいなど見えようもない」状況になってしまっている。問題は一時的な疲れから来ていて、生きがいや性格や能力自体の問題とは違う。それがわかればやるべきことははっきりする(休むこと)し、気力が低下していることそのものに悩んでさらに気力が低下するという悪循環に陥ることもない。

ちょうど極度に疲労していて気力がどん底になっていた時に読んでいたのでありがたかった。

おすすめです。

あまり詰めて取り組むのは良くないね

講演アウトラインの一人ブレストを数時間にわたってあれでもないこれでもないと詰めてやってさすがに疲労。頭は疲れ切って、気分も疲れ切り。

やはり、詰めてやるのはあまりよくない。

なぜ詰めてやってしまうのか。特に、疲れ切ってしまうときは、集中していると言うよりも、思ったようにぐいぐい進めないことに囚われてしまっている。持っている株の値が落ちてきたり、負けが込んできたときに見切りをつけることができない感覚に似ているのかもしれない。プロジェクトの場合、うまく進まなかったという気分で終わりたくないとこだわって切り替えられないという気持ちと、このまま放っておくと間に合わないのではないかという不安感の入り交じった感じ。

でも、時間切れで終わらざるを得なくても、次の時に見返してみるとすんなりと進んだりもする。それどころか、あっさりリセットして別のアイデアが浮かんですいすい進み、この前の悩みは何だったのかと思うこともよくあること。

という経験に基づけば、総じて、あまり詰めてとことんやっても煮詰まって疲労するだけで効果的ではないと言える。よく言われていることで、頭ではわかっているんだけどね。その場ではなかなかそうはいかない。

では、どこをどう変えたら、この煮詰まりを繰り返すことをとめられるか。もちろん、意志を強く持って切り替える、などという精神論はうまくいかない。煮詰まり街道まっしぐらに突き進んでしまっている暴走車の中で、Uターンして戻ればいいんじゃない、というようなもの。

煮詰まり街道まっしぐらになったらできることは少ない。だからそうならないように防護策をとっておくのがよさそう。

それには、予めその日の作業にあてる時間枠を決めておく。そして、時間の終わりになったら、できてもできなくてもそこが枠だと割り切る。

気分的にはここで放っておけないという勢いがついているかもしれないが、暴走になる前にしっかりとエンジン切って区切りをつける。そうすれば、一つのプロジェクトの不安やフラストレーションが止めどもなく流れ出して意識世界全体を覆ってしまうことが避けられる。

時間で区切りをつけやすくなる(踏ん切りをつけやすくする)ための工夫もいくつか考えられる。

まず、早めにプロジェクトに取りかかって、時間に追われないように進めること。時間に余裕がなくなると踏ん切りをつけて先送りがしにくくなる。これも、わかっちゃいるけど、の一つだけど、心に留めておいて損はない。

もう一つは、作業を止める時点での現状、問題点、見通し、考えられる方向性などをメモしておく。それによってより安心して先送りできる。

プロジェクト単位では、煮詰まってしまう悩みの段階は必ずあるもの。それが全体を引きずり落とさないようにするにはその意識もプロジェクト事に切り分けて、煮詰まった状況や感覚をそのプロジェクトの中だけに閉じ込めておくことが大事。

目の細かい時間を生きる

子どもの頃、若い頃は、一日一日、一年一年が長かった気がする。細かいことすべては到底思い出せないけれど、どの年もいろいろなことが詰まっていた気がする。

中学や高校なんて3年ずつで、何とも慌ただしいと思えるが、比較的記憶が残っている高校時代を振り返ってみると、どの学年での記憶も長い時間であったように思える。

なのに、大人になってみると、5年や10年があっという間に過ぎてしまうような気がする。そうした時間の流れの速さは、人生が軌道にのって生活が安定してくるとなおさら。

日々の生活がルーチン化され、先の見通しもついてくるからなのだろう。代わり映えのしない平坦な土地をまっすぐに延びるハイウェイを走っているようなものなのだろう。そんな日々の中では一日一日が渾然一体となって区別がつかなくなる。

そんな時間の流れ方があるとき大きく変わった。子供ができたときだ。自分だけでは数日も生き延びられそうもない様子で生まれてくる赤ちゃんが、目まぐるしく成長し、いろいろな段階でさまざまな成長痛に悩みながら、変化し育っていくのに寄り添っていると、時間の進み方が一気に遅くなる。一瞬一瞬が大きな変化の可能性と緊張感をはらんでいるから。

僕らに与えられた時間は物理的には皆平等。誰にとっても一時間は一時間、一日は一日。でも、そこに詰まっている「意味」は瞬間瞬間への向きあい方で大きく変わる。特別なチャンスとして意識して向き合う一瞬がどれだけ多いかで、時間の織りが全くちがう。

変化に富んだ時間には多くの「意味」が詰まっている。変化がなければ、新しい意味は生まれない。一瞬一瞬に正面から向き合い、働きかけて、目の細かいいい時間を生きていきたいよね。

本物であること

現象を理論化、モデル化して捉えることは、特に全体像や大枠の体系性を捉える上で有効だけれども、あくまで「本物(authentic)」の感覚にこだわることを忘れない。「本物」は具体的な時と場に埋め込まれている。その現場にあるちょっとした気づき、違和感、手触りを大切にして、その引っかかりを常に手放さない。

「本物」とは、建前的な正しさとかではなく、その場の直の肌感覚。この「本物」感覚をないがしろにして、自分の頭の中だけで理屈をこね始めると、目の前にあるものを見なくなり、自分の理解に都合の良い、自分よがりのまやかしの枠を作ってはめてしまうだけ。そうなると、いくら真実を探ろうと問い詰め突き詰めてみても、自分の作った疑似世界の中の堂々巡りになってしまう。

言うまでもなく、「本物」を感じ取る肌感覚を育てることが何にもまして大切。やっかいなことに、この「肌感覚」は理屈ではわからない。そもそも、理屈を越えた本物感覚が「肌感覚」なのだから。禅問答のようだが、「肌感覚」は肌感覚で覚えるしかない。「本物」に触れて感動させられる経験が多く重なって体にしみ込む中で徐々に育つ。

「本物」は感じ取るものではあるけれども、誰もが同じように感じるわけではない。同じ色を見たときに、赤だ、緑だというところは人と人の間で一致しても、それが好きか、感動してしみ込んでくるかどうかは人による。それと同じで、経験、見たもののしみこみ方も人によって違う。そして、ピンとくる「本物」も人によって違う。だから、「本物」感覚は簡単にパターン化できるようなものでもないし、まねできるものでもない。人の肌感覚をまねしようと思ってもできない。自分の「本物」感覚は自分の身体で感じ取り自分の中で育てる。

自分の人生は自分が「本物」を感じ取れる領域で磨く。「本物」を感じられないところで磨こうと思っても、借り物の基準や借り物の目標で自分の人生を縛ってしまうことになり、自分の人生が自分から剥がれてしまう。

 

本物にこだわって生きよう。

「本気」の約束

創られたものの形としての美しさには、時と空間を超えて人を動かす力がある。初対面の人でも、何の前置きもなく、いきなり心を鷲づかみにする魔力がある。作品の「見方」や理屈がわからない人も思わず振り向かせるカリスマがある。

だから、ものづくりには、技を磨き、形としての完成度を高めることも大切だ。

でも、ものづくりでの価値は形の完成度だけでは語れない。特にパフォーマンスについては。

そこでは、形としての完璧さよりも、その人の心がどれだけ宿っているか、その人の本気がぶつけられているかが、人々を動かし、かけがえのない価値を生む。形の完璧さばかりを追い求め、突き詰めると創るというプロセスそのものから意識が剥がれてしまい、心が入っていないカラになってしまうことさえある。

そのことが、セス・ゴディン (Seth Godin) のブログで非常にうまく語られていた:

もし、「生み出せる最高のもの」を求められたら、たぶん、今までに創ったことがあるもの、やったことがあるもの(例えば先週創ったものと同じもの)を見せようと思うだろう。「最高のもの」を求めるということは、以前すでにやったことを繰り返してやることを求めていることなのだ。

しかし、もし人が求めているものが、その時その場にいる「あなた自身」だったら、完璧じゃない。完璧ではあり得ない。あなたが生み出すものはただ以前とは別のもので、その場で創られた生のものであるというだけ。

人に向き合ったその場その場で出来ることは、あなたの本気を見せ、火を付け、大きく跳躍すること。本気で身体を張りながら、同時に完璧であることはできない。
本当の価値を生む人たち(アーティスト)に対してファンやお客さんが求めるのは「最高」や「完璧」ではなく、「本気」なのだ。

ジャズの演奏に「最高」や「完璧」は言えない。だからこそ面白い。
If someone wants your very best version, that probably means that they’re going to get the same version that you’ve done before, the same as the best version you produced a week ago. If you want the best, it also means that you’re asking someone to repeat what’s come before.

On the other hand, if they want you, right here and right now, it won’t be perfect. It can’t be. It will merely be different and real and in the moment.
The opportunity in any given moment is to share your truth, to light a spark and to leap. But you can’t do that at the same time you’re being perfect.
Artists end up with clients, customers and supporters that don’t demand the best. They merely demand the truth.
There is no best jazz performance. That’s why it’s interesting.

 

「本気」の約束と「本気」への期待・信頼でつながる関係を増やして、その中で生きていけたら本望だな。

美しい時間が創られる場所

美しい時間というのは過ぎてしまった時の中に多く見つかる気がする。

その時間がもう遠く離れて戻っては来ないという寂しさもあるのだろうが、経験・感覚・思いというものは、概して具体的な空間と時間に囲まれた場(「今」)を離れることで純化される。美しい時間、美しい思いは、それを生んだ場と離れたところに虹のように映し出される。

でも、虹を探しにふもとに走って行ってもどこにも実体としては見つからないように、「美しい時間」「美しい思い」も、それが感じられるところに実体はない。

虹は楽しめばいい。でもそれ自体を追いかけるな。

 

美しい時間・思いの実体は、いつも窮屈な空間や時間に囲まれ、喧噪と汗にまみれたその場、「今」、にある。その砂埃の中で美しい時間・思いの原石がつくられる。

美しいものを創る人は、不完全な、苦痛に囲まれた現実の場の中で、それと戦いながら、美しい原石を生み、心を尽くして磨いている。

それを思うと、創られたもの・時間の美しさ以上に創る過程につぎ込まれた命に感動する。