美しい時間が創られる場所

美しい時間というのは過ぎてしまった時の中に多く見つかる気がする。

その時間がもう遠く離れて戻っては来ないという寂しさもあるのだろうが、経験・感覚・思いというものは、概して具体的な空間と時間に囲まれた場(「今」)を離れることで純化される。美しい時間、美しい思いは、それを生んだ場と離れたところに虹のように映し出される。

でも、虹を探しにふもとに走って行ってもどこにも実体としては見つからないように、「美しい時間」「美しい思い」も、それが感じられるところに実体はない。

虹は楽しめばいい。でもそれ自体を追いかけるな。

 

美しい時間・思いの実体は、いつも窮屈な空間や時間に囲まれ、喧噪と汗にまみれたその場、「今」、にある。その砂埃の中で美しい時間・思いの原石がつくられる。

美しいものを創る人は、不完全な、苦痛に囲まれた現実の場の中で、それと戦いながら、美しい原石を生み、心を尽くして磨いている。

それを思うと、創られたもの・時間の美しさ以上に創る過程につぎ込まれた命に感動する。

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