今の僕にとって大切なこと

自分が大切に思うこと、それによって大きな喜びと幸せを感じること、は生きていくうちに変化するもの。

今の僕にとって大切なことは2つ。

一つは、人とつながり、活かし活かされる関係の中で、自分を超えるべく力一杯がんばり、他の人のがんばりを支えること。

人は活かされる場、役割を与えられることで力を発揮する。どんな人でも必要とされたいもの。役に立てる、という気持ちが持てる力を引き出し、自分が思っても見なかった能力を発揮させる。自分の能力は自分自身で発言させることは意外と難しい。他の人から求められて目覚め、育てられるもの。

個々の人間が昨日までの自分を超えようと努力を重ねることでグループも成長する。グループが個人を育て、個人が育つことでグループが育つ。そんなプロセスを通してきっと面白い展開がある。

 

もう一つは、この世界には驚くべきこと、感動すべきことがたくさんあるというワクワク感。

世界のワクワク感を増やすために、感動する心を育て、感動できる環境をつくり、感動をもたらすもの、知的好奇心を突き動かすものを創り続ける。

自分自身もたくさん感動し、それを自分の中で純化して、新たな感動を生む原石にして世に生み出していく。

充実した人生をどう作るか

人生が充実度を計ろうとするとき、喜びがあるか、幸せか、意味を感じるか、価値があると思えるか、などがよく引き合いに出される。確かに、「喜び」「幸せ」「意味」「価値」が大きい人生は充実したものだといえる。

でも、どうしたら充実した人生を送れるかと考えるとき、「喜び」や「価値」自体を追い求めると迷走してしまう可能性がある。というのも、「喜び」も「幸せ」も「意味」も「価値」も、満たされた人生の結果としてもたらされる兆候であって、それ自体が満たされた人生を作る、保障する要素ではないから。

一時的で表層的な感覚として「喜び」や「価値」は他のことで得られることもある。だから、何を通して「喜び」や「価値」を得るかにこだわっていないと、「喜び」や「価値」を感じるために手段を選ばず、なりふり構わず行動してしまい、一時的な快楽追求や、表面的な成果・実績追求をするようになってしまう。

本当に充実した人生は、自分にとって大切なことを知り、それを大切にする時間と活動を積み重ねていくことで築かれていく。

いつかどこかの君への置き手紙

午後の僕から午前の君へ

「置き手紙」の記事は、僕がなんらかの形で力になれる人たちに捧げます。

僕は人の力になること、人を元気づけることが好きです。でも、ずっと自分の言えることにはたいした価値がないであろうとか、他の人もいっているだろうとか、人を励ますなんておこがましいとか、思ってきました。

でも、子どもを育てたり、悩む若者の話を聞いたり、相談に乗ったり、一緒に考えたりしているうちに、僕にも力になってあげられる人たちがいるということがだんだんわかってきました。

同時に、僕の人生も40年の半ばを越えた頃から、この世での自分の時間の終わりを意識するようになりました。長く見積もっても、これからは、生きてきた時間よりも生きていく時間の方が短くなっていきます。その中で、できることを一つでも多くやっておきたいと思うようになりました。

これは、僕が自分の人生を生きてきて感じたこと、考えたことを、いろいろな局面で迷ったり、悩んだり、落ち込んだりしている人への応援の気持ちを込めて、書きとめるものです。悩みを越える足しになればもちろん嬉しいですが、ここに書くことは「教訓」や「アドバイス」のような立派で偉そうなものでもなく、まして、悩みの「答え」ではありません。

人生の悩みは結局のところ自分自身のもの。他の人が答えを与えられるようなものではないし、悩むこと自体が自分の人生ならではの醍醐味とも言えます。とはいえ、一人で悩むことはありません。他の人の経験や悩みを聞くことで、少し冷静に考えることができるようになったり、励まされることがあるでしょう。

このブログは、そんなふうに、あなたの悩みに寄り添い、もう一歩先に進む力となりたい、という気持ちで書いています。本当は、あなたが悩んでいるその時々に、気持ちのいい椅子にでも腰掛けて、話を聞き、僕の経験なども離しながら一緒に考えてあげたいと思うけれど、その時にいつでも僕がそばにはいられないでしょう。だから、その時のために、あなたに寄り添って一緒に考える僕をブログの形で残しておこうと思い、書き始めました。

自分の中に道が見つからなくても

そろそろ受験シーズンも終わった頃。うまくいった人、いかなかった人、まわりでもいろいろな人の話を聞く。そんな中で、能力も気力も十分にあったのに、なんかやる気を起こせず、引っ込み思案になり、結局希望の進学先からかなり落として安全なところに手を打ったという人の話を聞いた。

なんとももったいない。

そう思ったが、でもそれは、もっと良い大学に行けたのに!(そうでないところに手を打ってしまった)というのでもったいないと思ったのではない。その人が本気を出せずに安全なところに引っ込んでしまったこと、その人が持っているのに活かせなかった可能性、それがもったいないと思う。

もちろん、「可能性」がすべて実を結んで結果につながるわけではないから、挑戦したら失敗していたかもしれない。それでも、体当たりでやってみたという体感は残る。それがこれからの人生にはより大事なことであると思う。

考えてみると、こういう話を聞くのははじめてではない気がする。能力も気力も十分にあるのにやる気を起こせずに引っ込み思案になってしまう人は意外と少なくないのかもしれない。

なぜだろうと考えるうちにふと思いついた。これは、ことによると今の世の中で盛んに求められる「自分を見つめること」の弊害なのかもしれない。

今は、あちこちで「自分がやりたいことを見つけろ」「自分がどんな人間なのか見極めろ」「自分の望む生き方をはっきりさせろ」などと言われる。この背景には、これまでの集団の中での調和を優先する価値観に代わって個性を尊重しようという流れや、変化が大きく不透明感が強い現代により自立的・独創的な人材が求められているということがあるのだろう。

何を隠そう僕自身も、自分の子どもたちに、「自分のやりたいことをとことんやれ」「自分を活かせることを仕事にしたらいい」などと言い、「自分が何をおいてもやりたいことは何だ?」と訊いたりもしている。こう言ってきたのは、周りの「社会常識」などに従う必要はない、「みんな」の価値観に縛られることはない、要領よく世渡り上手になることなど考えない方がいい、というつもりでのこと。端的に言えば、子どもたちを自由に生きさせてあげたいという思いからだ。

しかし、自由にさせてあげようというアドバイスも、現代のように目の前に広大な可能性が広がっている若者には、逆に不安を大きくさせてしまう部分もあるのかもしれない。好きなもの、大事なものは何かと繰り返し問われる。しかも既成の常識にとらわれずに自分の中にその答えを見つけなさいと言われる。それでかえって、自分の中にすべての答えを見つけなくてはいけないと焦る。ところが見つけられず、そんな自分(見つけるべき中身がない自分と見つけられない自分)に落胆し、自分は自分のやりたいことも見つけられない人間だと見切りをつけてしまう。そんなところに若者を追い込んでいるのではないかと思い至った。

自分が本当に好きなこと、自分が得意なこと、自分にとって本当に大事なこと、どれも自分のことだとは言っても、自分では意外とわからないもの。というのも、好きなこと、得意なこと、大事なこと、どれも人との関係の中で実際に活動することを通してわかってくることだから。

好きなことは自分が生まれ持ったもので、自分でわかって当然と思うかもしれないが、実は、好きかどうかはやってみなければわからず、たいていの場合何度も繰り返しやっている内にじわじわとおもしろみがわかってきたりする。

得意なことだって、自分の宝になるような能力のすごさは、自分ではわからない。本物の能力を持っている人ほどそうだ。能力を持っている本人にしてみれば、それはごく普通のこと。だから、自分の何がすごいかは、人の目を通してしかわからない。スーパーマンだって他の普通の人間と誰とも会わなかったら、自分がスーパーパワーを持っていることに気がつきもしない。そもそもその力自体が「スーパー」なのではなくて、普通の非力な人間に囲まれた環境での力のギャップが「スーパー」なのだから。

だから、若いときには、何が何でもこれが好きだとか、自分は絶対あれがやりたいとか、これは誰にも負けない自分の武器だとか、などということがはっきりとわからなくても無理もないと思う。安易に巷で流行の生き方をまとうのは良くない。自分のやりたいこと,やるべき事は大いに悩むべきだ。でも、自分なりの答えがはっきりと見つからなくてもいい。

そんな時は自分が信頼する人の意見を聞きながらとりあえず何かに全力で取り組んでみるといい。「全力で取り組んでみる」というのがカギ。それを外さなければ必ず自分の身になってくる。「自分の内的な理由」であることにやたらとこだわることはない。周りの言うこと、やることに惑うなと言うことは、すべて自分で自分の中に答えを探せということではない。

だから、自分が進むべき道がまだ見えなかったら、焦らず、自分を責めることもなく、目の前に転がってきたきっかけに全力で取り組んでみると道が開けてくるんじゃないかな。

モノか心遣いか

今日、昼食にも夕食にも弁当を食べたのですが、その弁当があまりに極端に違っていて面白かったので、その話をしたいと思います。

一体何がそんなに違ったのか。まあ、値段も違うと思いますが(片方はごちそうになったので正確にはわかりませんが)、もっと重要な違いを感じました。端的に言えば、それは味わったのが「モノ」か「気持ち・心遣い」かの違いと言えるでしょう。
 昼に選択肢がなくて仕方なく買った弁当は唐揚げとハンバーグが無造作な感じでゴロンと入ったもので、面白くもおいしそうでもないものでした。食べないとお腹がすいてしまいそうだったので買いましたが、食べる段になって何とも言えない灰色の気持ちになりました。
 こんな弁当を作って嬉しいのだろうか。作った人は食べる人の姿を一瞬でも想像したのだろうか。答えはどちらもノーでしょう。そんな、モノとして作られて、モノとして詰められたものを食べようとしていることが何かすごく殺伐とした感じで嫌だなあと思ったんです。
そして夕食の弁当。まずはご覧あれ。

13-03-15 春弁当

 入っているものがいろいろでおいしそう!ということもありますが、左上のちらし寿司は菜の花畑や桜の色合いだし、右上には桜の葉や花、桜の花びら形のかまぼこのようなものや、桃の若い実(緑色の梅のような実)、下の段も春を感じさせてくれる工夫や気遣いがたくさん詰まってます。
 これだけ春が一杯に感じられて(花粉もなく!)、気分も明るくなってきました。そして、こんな演出をしてくれた人たちの気持ちやこだわりが、なんかとても嬉しく感じました。
 いろいろな工夫や細かい手の入れかたを見つけながらおいしく味わったのは、品々の味もですが、それ以上にそこにかけられた手間や心遣いでした。
 心遣いが感じられることがこれだけ嬉しく感じられるのは、やはり我々の日常を取り巻くものが工業製品や大量生産品でしめられていて人の心を感じにくくなっているからなのでしょうね。

質問する力こそ育てたい

実社会の問題には答えは一つではない。答え方は無限大。したがって、質問をどのように設定するかでどのような答えが導かれるかが決まる。質問の立て方が洞察にとんだ面白い視点に基づいていなければ、洞察に富んだ答えは出てこない。

TEDxStanford – Tina Seelig – A crash course in creativity

答えを探すことばかりに躍起になると決まった形の問題に決まった形の答えを出すだけのルーチンにはまっていく。それは予め決まった場所で予め決まった規則に沿って起こる課題の解決ゲームに過ぎない。

まして、公式を覚えたりして速さを競ったりしていれば、本質的な問題解決からはどんどん遠のいていく。

そう考えると、公式化されうるものを素早く効率的に解く訓練ばかりに力が行きがちな従来の学校教育がいかに現実社会での問題解決から遠いか、改めて思う。変化の少ないときであれば、それもまだ役に立つところもあったのかもしれないが、今のように変化が速く大きいときは、学校での問題解きは守られた砂場での「問題解決ごっこ」でしかないだろう。

答えを得ることも大事だが、それ以上に、質問の仕方で悩め。今の複雑な世の中での問題は、まともに答えを探しても見つからないことが多い。問題を全く別の枠組みで捉え直して答えが得られる形にする、というような柔軟なアプローチが必要とされている。そんな時代の要請に応えるためには、質問する力こそ育てるべき大事な力。

二つの友

大きな変化は、一つの安定的な状態から違う状態への世界の組み替え。

そんな大きな変化と時は、人の間の緊張関係、人と自分の入れ替えを伴う。それまでの安定的状態を支え構成してきたもの・リソース・人々の多くと別れて、新しい状態を支え構成する人・もの・リソースを組み上げなくてはならない。

その過程で最も難しい要素が友なのだろう。

友には二通りある。状態を支える友と変革を一緒に生き抜く友。どちらも大切だけど、違った種類の友。

状態を支える友は、どんなに気があって、一緒にいてしっくりきても、可変要素で付き合いは一時的。なぜなら、その友と共有するのはある一時点の状態だから。特に変化をし続ける人生では状態の移り変わりと共に「状態の友」の移り変わりは必然。「状態の友」は、辛いけどちゃんと入れ替えていけないと、変化の環境を保ちにくくなってしまう。

変革を共に生き抜く友はビジョン、方向性を共有する。こういう友との付き合いは長くに亘って大切であり続ける。この友とは、状態が変わっても、不安定になっても一緒に走り続けられる。共有するモノが方向性であって、ある特定の状態ではないから。方向性を共有する友とは今離れていてもいずれ会えるかもしれない。「変革の友」は、自分の方向性を維持するのに大事な役割を負ってくれる。簡単に手放してはいけない。

変化・進化を絶やさず、でも軸をぶれさせずに人生を生きていくには、方向性、価値観を共有する違った種類の友を常に見極めていることが大切。

芝居の公演を振り返って

早いもので、この間の劇団わかんないの公演ななめ45度のキセキから一週間経ってしまった。この一週間は前半は寝込んでいて、後半は風邪を引きずりながら動いていたので、あっという間に時間が経ってしまったが、記憶が風化してしまう前に、自分なりに振り返ってみる。

今回のプロジェクトに声をかけてもらったのは9月のはじめ。10月の終わりにメンバーの顔合わせをしたときには、まだどんな作品になるのか、それどころかどんな風に作品作りが進んでいくのか、イメージができなかったが、「斜め45度の関係性」をテーマにしたいというのがとても面白いと感じた。

人通しの関係というのは、家族や先輩後輩という縦の関係や、親しい友達などの横の関係といった直接的な「直線の関係」よりも、直接の利害や関係がない「斜め45度」の関係の方が重要なのではないか、と言うのだ。確かに、「斜めの関係」の人に思いがけなく影響されたり、またそういう人からの影響は意外と素直に受け入れられたりして、人生の行く末に大きな、面白い意味をもたらすように思う。これにはピンと来た。

こんなテーマとか、自分が演じる人物の無難に生きてきた人生を打ち破ろうとする苦悩なんかを軸に、何かを表現し、見に来てくれたお客さんに何かを届けようと考え続けた。それで結局この作品で何を表現したかったのか。それらしいことは言えないことはないけれども、正直に言うと、今となってはよくわからない。

作品を作り込もうとしている段階では、こんな風な気持ちが伝わったらいいとか、こんなメッセージを送りたいとか考えたし、どんな風にそれを実現できるのかと総監督の陸くんといろいろ話したり、団員の間で結構激しい議論もした。でも、それも、作品と役に入り込んでいくうちに、どんどんわからなくなっていった。というか、考えなくなっていったというのがより正確かもしれない。

作品の意味とかメッセージなんかはあまり作り込むべきものでもない。送る側が一方的に決めて押しつけるべきものでもない。意味やメッセージはお客さんとの間で作られるもの。どんなものを受け取るかはお客さんそれぞれ。お客さんとの間で生じる意味やメッセージが一様ではなくオープンエンドなのが豊かで面白い、ってね。

それに、作品の意味とかメッセージが何かなどという問いは、ストーリーとか自分の役とかを離れたところから、ある意味「他人事」として見ている時に考えること、考えられることだと思う。台本を体に入れ、その台詞を通して自分がその役柄に入っていくと、その「役」に血が通い始め、一つの「人生」になる。そうなったとき、その役の生き様はもはや一言でラベル付けできるような「意味」や「メッセージ」なんてものでは捉えられなくなる。役の人生を自分として生きようとするとき、「意味」だの「メッセージ」だのというきれい事なんてどこかに吹っ飛んでしまう。生きるのに必死で、かっこつけている余裕なんか無い。本番前の楽屋で瞑想しながら考えていたことは、自分の役の人生を一生懸命生ききること。そして、舞台では一生懸命に生きられた。でも、自分の役や作品がどんな意味を表現したのかは、よくわからない。自分にとって確かなのは自分が一生懸命に生きたことだけだから。

それに加えて、このプロジェクトは僕自身の戦いでもあった。

陸くんの演出はいつも人が見せるのを恐れているところをえぐりだすというか、そこに挑戦をかけてくる。踊りだってアップテンポでキビキビ動くものが多いので、全くもってオジサン向けではないし。威厳なんか身ぐるみ剥がされる感じ。まあでも、自分の専門的能力や仕事上の立場とか社会的ステータスみたいなものに守られていない所で素で戦ってみると、自分が生身の人間としてなんぼのものかというのを確認できて、気が引き締まり、いい経験。自分を守ってくれる鎧、それは同時に、思いがけない方向への新しい成長を抑えてしまう殻にもなってしまう。成長をし続けるためには、自分から安全な鎧を壊さなければならない。恥ずかしかったり、怖かったりするけども。

僕は僕に与えられた役を一生懸命生きてみました。このお芝居を通して自分とも戦いました。それが、世界の空気を少しだけ波立たせ、ななめ45度の感じでなんとなく、どことなく、なんだかわからないけど、あなたに届いたら、嬉しい、かな。

何が贈られたのかわからない?

いいじゃないですか、そんなこと。僕はとにかく贈り物を贈りたかったんです、あなたに。

人生を生ききるということ

beautiful life
Photo from: http://flic.kr/p/bAn5aF

それは自分の身体、自分の出逢いを通してしか実現できない人生を生きるということ。

他の人に置き換えてもつじつまが合うような人生は借り物。

幸運だと思えること、不運だと思えること、うれしいこと、悲しいこと、楽しいこと、辛いこと、得意なこと、不得意なこと、好きなこと、嫌いなこと、すべて自分の人生に自分のものならでは特徴を授けてくれるでこぼこ。

どれも大事にして、出っ張ったところもへこんだところもいっぱいに広がって生きよう。

自分に転機をもたらせたもの

何とか自分を変えたいと、何年も悩みあがいてきた。

そして、この1年ほど、やっと自分の中に変化の手応えを感じるようになってきた。自分が大事にしたいもの、生き方がだんだんはっきりとわかってきた。

そんな変化がおきたのは、今思ってみると以下の5つの気づき・決心が土台になっている:

1) 自分に対する劣等感・不安感から逃げずに向き合い、受け容れる。
〜自分の至らないところ、ダメなところを受け容れる
〜劣等感・不安感をごまかさずに認め、分析する

2) 自分を幸せを自分の中に探す
〜外的な要因・ものに「幸せ」を求めるとそれに翻弄される

3) 自分は自分自身の最大の理解者であり、支援者である
〜これまでもっぱら自分に辛くあたってきたが、自分で自分を潰すのはばからしい
〜自分こそが自分自身を応援しよう

4) 自分に大切なもの・こと・人のことを真剣に考える
〜大事なものをはっきりと意識し、明確に優先する

5) やることの結果よりもプロセスに焦点を当てる
〜どのような結果になるかにこだわるのではなく、その成果に向かってもがき、悩むプロセス自体を楽しみ、味わい、大事にする