可愛げのある人

いくつになっても可愛げのある人でありたいと思う。

自分も可愛げのある人にひかれるし、可愛げのある人とは一緒にモノづくりができる気がするから。

じゃあ、可愛げがある、ってどういうことなんだろう。

「可愛げ」をつくる要因はいろいろあるんだろうけど、その中核は、勝とうとしていない、ということなんじゃないか。勝とうとするのは、他の人からの意見かもしれないし、他の人の運や境遇かもしれないし、他の人の容姿や強みかもしれない。

もちろんただただ負けて、自己否定に走ってしまうのはよくない。でも、いつも勝とうとしていると、周りや他の人に見られる良いところ、幸運、うなづける意見、全てが打ち勝つべき対象として感じられてしまう。

そうなると、自分がいいな、うなづけるな、と思うことであればあるほど、打ち勝ちにくい脅威として感じられてしまう。羨ましくなってしまったり、納得してしまったら負けだから。

そして勝ち目がなさそうだと、対象を否定したり、攻撃するしかなくなる。

そうやって、いいなと思うことに対するネガティブな行動が起こる。それがポジティブがネガティブに変わる瞬間。

「優等生」として成功してくると、ものごとを勝ち負け事で捉えて勝とうとしてしまう傾向が強いようにも思う。

「優等生」は勝ち方をよく学び、勝つことの楽しさを多く体験している中で勝ち負けのゲームに過剰適応してしまいがちなのかもしれない。合わせて、自分が感じた勝つことへの賞賛の繰り返しと、負けた人への仕打ちを見る中で、負けることへの恐怖も持つようになるのだろう。

しかも、負けることが少なければ少ないほど、負けることが怖くなってしまう。負けることの恐怖から抜け出るのは早いほうがいい。

楽しく負ける、勝ち負けにとことんこだわることはしないというのが、人とのつながりを豊かにしていくひけつかもね。

まず共感から

世の中の何か、人との間の何かを変えようとするときに、他の人を理解できてはじめて前に進むことができる。

そして、他の人を理解するには共感がカギになる。

共感とは、同情することではない。人が取った行動を、その背景にある現実認識からスタートして見てみる、ということ。

人は腹が立つことや意味の分からないことすることがある。でも、その理由が、その人たちが「バカだから」とか「悪意に満ちた奴だから」であることはほとんどない。

人が自分に理解できない行動を取る理由を、その人がバカだから悪人〜理解できない人間〜だから、と考えることは、自分にはわかりやすく簡単な説明ではあるが、その人の頭と心の中をブラックボックス化してしまい、理解しにくくしてしまうことになる。

相手の頭と心の中がどうなっているのかより正確にわからないと、どこ部分が変化のための鍵になるポイントかわからず、何に働きかけたらいいのかがわからない。

人というのは、知っていること、信じていること、持っている価値観、満たさないではいられない欲求、などでは違っていても、その上のロジック、結論の導き方はそうとんでもなく違うものではない。まして、同じ文化の中で育ったならばなおさら。

だから、もし改善、解決への一歩を目指すなら、信じらんない!とんでもない奴!と憤慨するところを越え、良い悪いの判断をとりあえず止めて、相手の意識空間に入ってみることからはじめてみるというのはかなり有効。

「なるほど、そういう状況であればそういう行動を取ってしまっても無理はないか」と思えるところに立ってみると相手の行動がどこから来ているのかが見えてきて、相手への働きかけのポイントも見えてくるんじゃないだろうか。

皮肉なもので、相手への働きかけの可能性が絶望的に思える時ほど、相手への共感が働きかけの近道だったりする。

多くのものがそうであるように、最も難しそうな道に打開策が隠されているらしい。

Inspired by: Seth Godin’s blog “Empathy”

Fragile dreamer

自分は引っ込み思案な夢追い人なのだと思う。

夢見ることは好き
無茶な夢でも追いかけようと思う
追いかけるためにいつでも身体ごと飛び込もうと思う

人生、夢見ることが終わる段階はないと思う
夢を追いかけ回ることが大人げないとしたら、大人にはなるまいと思う
いや、なっちゃいけないと思う

自分は夢を持つ資格がないと思っている人、夢を追いかける勇気が出ない人を見ると放っておけない
その人の命がもったいないと思うから

でも、僕の中の夢追い人は引っ込み思案
無関心、無反応にはめっぽう弱い
皮肉屋のあきれ顔や懐疑派の批判は屁とも思わないけど
見向きをしてくれる人、乗ってくれる人がいないとすぐテンションが下がってしまう

もっと強靱な夢追い人でありたいと思っているけど
精神論だけではどうにもならないし
相手の反応に敏感なのは必ずしも悪いことじゃないかとも思う

引っ込み思案な夢追い人という性質は自分の結構奥深くに根ざしたものらしい
もともと寂しがりで恥ずかしがりでいながら、不器用なので、本気で取り組むには自分をさらけ出すくらいしか芸がない
でも、それで、これまで良かったこと、創り出せたこともたくさんあるから
これはこれで受け入れて、そこからどう積み上げるかを考えることにした

無関心には弱く、相手の反応に敏感という「弱さ」を持った自分の発揮できる力を最大にするために思いついた戦略

それは、向き合う相手と場所を見極めること

もともとすべての人の役には立てないし、すべての人に足しになることをできるほど器用でも多才でもない

だから、自分が役に立てる人、役に立てる場所を見極める
新しい人とのつながり、新しい場所に挑んでいくのは一生懸命やるけど
本気でコミットすべきかどうかという見極めを大事にしていきたいと思っている

できあがっていない人はオープンだからいい
いろいろ一緒にやれそうで、その可能性に心躍る
だからできあがっていない人に対してはほぼ無条件でコミットします!

自信は価値ある行動の上に

自分を信じることは大事なこと。

単に何となく気分が良くなるからとかではなくて、人に伝えること、新しいものを創り出すこと、何かを世に問うこと、すべてが自分を信じることから始まるから。

でも、それが難しい。

セス・ゴディンのブログで良いことが書いてありました。

「自分を信じろ」というアドバイスをいくらもらっても、「自分を信じよう」といくら自分に言い聞かせても、確信は得られない。

自信を前借りしてそれを基盤にこれからすばらしいことをやっていけるに違いないと力むよりも、むしろ、行動を通して自分に対する確信を築き上げていく方が現実的。

まだ自分に自信が持てなくても、自分が本心から価値があると思えることをまず実行する。

ほんの小さなことでもいい。

そして、自分が価値あることを実行し、大切に思えることを生み出せたことをしっかり実感する

その上で、次の価値あることを実行する。

そうやって徐々に大きな価値を生み出す行動を重ねる。

そうして積み上げた行動を振り返ってみれば、自分の力を確信できるようになる。

 

掛け合いで生きていきたいなあ

「掛け合い」を大事に人生を生きていきたいと思う。

自分の動きを他から切り離した「自分」という枠に入れて活動するのではなく、その場その場で、その時の相手との間合いの中で、相手との駆け引きの中で、相手と共に自分の動きを創り出す。

駆け引きの相手には直接の話し相手だけでなく、周りの人々もより広い社会も含まれる。その場の動きに関わってくるすべてが「相手」。

相手との関係の中で動的に動いていると、僕らは自分たちの持ち前の力以上の力を発揮する。それは、相手との駆け引きの中では常に新しい、しばしば想定外の刺激が返ってくるから、自分の動きが自己完結しない。しようもない。

ダイナミックな掛け合いづくりには、お互いが相手に「振り回される」ことが大事。同じ場にいても、お互いが自分の殻に収まって、自分がすべてコントロールすることにこだわっていると、お互い自分の想定内でしか動かない。相手に「あずけて」自分を振り回させることで、相手の想定外の動きに突き動かされ、お互いの行動が持ち前の枠を超えて、はじける。

これは、「相手まかせ」「状況まかせ」とは違う。あずける先は相手自身ではない。相手からの要求や刺激だけに応えると、動きは結局相手という一人の人間の想定内に収まって固定化してしまう。

大事なのは、自分だけでもなく、相手だけでもなく、自分と相手との関係の中で相手の動きとどうからむかということ。

刻々と変わる相手との間合いの中で、自分の踏み出した一歩に相手がどう応えてくるか。それを踏まえて、その場の流れと新たな間合いの中にどう自分の次の動きを織り込んでいくか。

そんな風に、常に相手を見ながら、相手と引っ張り引っ張られながら、時には相手からの無茶振りに慌てながら、柔軟に、自分の多様な力を引きださせながら、相手の力を引き出しながら、生きていきたいなあ。

力より、まず恐れを飼い慣らす

体力や、学歴や、知識や、技術力、○○力、××力
いろんな力を身につけることは良いこと

でも、その力、本当に生かすには、自分の恐れと戦わなくてはならない

せっかくいろいろな力を持っていても
恐れに囚われていると
自分を守る鎧にしかならない

鎧としての力は
人のためにも、世の中のためにもならない
それどころか、人を傷つけることも少なくない

大事なのは力より、
まず恐れを超えて飼い慣らすこと

人の気配

製品に張られた表示シール
きっちり貼られたシールよりも、
すこし傾いたシールの方がいい

そこには、生身の人が関わったほのかな温かみがあるから。

ソファーに置かれたクッション
きっちり縫われたカバーもいいけれど
その隣のギザギザ縫いのカバーの方が好きだな

君が縫ったことが一目で分かるから。

そんな君も段々上手になっていって
君の縫い目であることが分からなくなっていくのかな

上手になってもクセが残ると良いなぁ

君らしさをいつも見ていたいからね。

自分をさらす恐さをどう越えるか

僕は自分の歌を作って歌いたいと思う
でも、自分の歌のなかに自分がにじみ出るのが恥ずかしい
自分の歌を上手く歌えないのが恥ずかしい

つまり、恐い

一方で、内面を表現したい自分がある
でも他方で、内面をさらすのが恐い自分がある

よくわからない

なぜ恐いのだろう

やはり、どう思われるか分からない、
受け入れられないかもしれない、
それが恐いのだろう

どうしたら恐くなくなるのだろうか

で、ひらめいた。

自分を他の人と一緒に楽しめればいいんじゃないか

自分を、他の人と切り離して、自分だけが知っているものとしてかくまってしまうから自分をさらすことは恐くなる
素の自分を見せることなど危険きわまりない

でも、自分を、ダメなところ、不十分なところも含めて、他の人と共有して一緒に味わうことができれば、
自分をさらすことの恐さを何とか越えられるような気がする

もちろん、簡単にできることではないかもしれないけど、
とりあえずどうすればできそうなのか分かっただけでも、
百歩前進

世の中が「作品」であふれたら

「ものが最初に生まれてくるときって、誰のためでもなく、つくった自分のために生まれてくるはずなんです。そこに込められたものの力って、とても強いと思うんです。その気持ちが強ければ強いほど、それは波紋のように、人の心から心に伝わっていく。売れる売れないじゃなくて、作者が自分で気に入っているか、気に入っていないか。それが、つくられたものが「作品」であるかどうかを分けるポイントなのかもしれません。」

ほぼ日手帳のことば:細井潤治


自分の身を削るようにしてものを作り込む。
作られたものに向き合い、本当に納得できるか、好きになれるか、問いただす。
納得できなければ、やり直し。

そうやって創り出されたものは、
その人がいたから、その人だから生み出せたもの。
その人の「作品」。

そんな「作品」は、その人がいたからこそ生まれたもの。
そういう意味で、その人が生きていた証。

ものを創り出すのなら、
自分が生きていた証となる「作品」を創ることにこだわりたい。
生きた証にならないものはをいくら創りだしても、
ただのモノだから。

生きた証となる作品づくりといっても、
これは、いわゆる「芸術家」の作品づくりの話だけじゃない。

「普通の仕事」にしても
ちょっとした人助けでも
人と過ごす時間でも
散歩道でのゴミ拾いでも
自分ならではの「作品」を創り出せる

みんなが毎日自分がやっていることの中で「作品」を創ることにこだわって、仕事場でも、満員電車の中でも、近所でも、みんなの「作品」があふれかえったら、何かすごいことが起こりそう。

そんな気がしませんか。

 

数値目標と生み出す過程

これはどの人も感じていることだろうけど、昨今の成果主義は、基本的なところで人を疲弊させる。

それは、成果主義—少なくとも今広がっている形のもの—はプロセスをないがしろにして不信と不安を増幅させるアプローチだから。

厳しい成果主義は短期的には人々から馬鹿力を引き出すこともあるかもしれない。でも、中長期的には、ものを生み出すプロセスの劣化と、目標の後退、挑戦意欲の喪失を招く。

成果主義を極端に形式化すれば、数値主義(何でも数値化)に至る。数値だけで成果を測って締め上げれば、人は数値だけを追いかけ、生み出されるものの質にこだわっていられなくなる。

出口だけがチェックされ、しかもチェックの基準が数字で測れることだけ。努力は報われず、失敗に対するペナルティーだけが大きくなる。

そうなれば、必然的に失敗を避けることだけに意識が注がれるようになる。

今の「現場」に多い光景。残念ながら。