「思い・気づき」カテゴリーアーカイブ

楽観はスキル

この先いいことが起こりそうか
やることがうまくいきそうか
いい人に出会えそうか

これは外的な要因で決まっている、どうにもできないこと
そんな風に思えるかもしれない
そう信じて疑わない人も多いかもしれない

でも、実はこれは我々のものの見方の問題
そして、ものの見方は、その気になれば身につけることができるスキル
決まってしまっているわけでも、我々にどうにもならないわけでもない
自分の意思でどうにでもなる

それに気づくだけでも、見通しが明るくなるよね

能力の動的捉え方と「今」の質

「能力は生まれつきのものか、成長するものか」についての研究の話について、もう少し考えてみました。

人の能力が動的に変化するもので生得的に固定されたものではないというのは大事にしたい意識です。

動的に捉えることで、その時々の「今」の出来、不出来に一喜一憂することなく、理想に届いていない「今」にいたずらに焦ることもなく、明日また新しい行動を積み重ねていく気力が湧いてくるでしょう。動的な能力の捉え方は、我々を「今」にとらわれる気持ちから自由にし、未来への進化の広がりの中に位置づけてくれます。

でも、一方で、こうした捉え方は、それだけを強調すると問題があります。例えば、明日があるのだから今やらなくてもいいだろうと先送りを繰り返し、その時々にこだわらずにただ流してしまうような態度にもつながりかねません。また、よりよく進化するであろう将来の可能性ばかりを考えて、「今」形にすることができなくなってなってしまうかもしれません。いわゆる「完璧主義者」にありがちな状態です。どちらも、その時々の「今」を軽視する態度です。

明日の変化や可能性を意識することは大事ですが、その変化や可能性の質を高いものにするには、その時々の「今」を大切にする態度が不可欠です。

その一つは、「今」に真剣に向き合って全力で働きかけること。

我々はこの世界に生きていますが、その世界に直接働きかけることができる唯一の接点は「今」しかありません。我々の人生は過去にも未来にも延びていますが、過去や未来は我々が働きかけられるものではありません。我々の人生は「今」の積み重ねでできていて、「明日がある」ということは、「今に代わるより良い働きかけのタイミングが明日にある」ということではなく、「明日は明日の『今』がある」ということです。ですから、我々の生きる営みの質と価値を上げる手立てがあるとすれば、それは「今」の行動の質と価値を上げることでしかありません。

もう一つは、「今」形にしなくてはならないということ。

より良いものを求めて「今」形にすることをやめて「可能性」のまま明日に送る−−それを繰り返す限り、世界には何も起こらず、生きる営みの跡も残りません。

能力の変化は、その時々の「今」に真剣に働きかけ、形に残していくことを通して初めて実体化します。

最後にもう一つ。人の能力の変化がより高い方向への「進化」になるためには、もう一つ「今」においてやるべきことがあります。それは、「選ぶ」ことです。

選ぶことなく行き当たりばったりで行動しても、その行動の積み重ねは一貫性を持たないバラバラの行動の寄せ集めに終わってしまいがちです。その積み重ねを「進化」や「成長」として方向付けるものが、何をやって何をやらないかという選択です。そして、その選択をガイドするのが自分が追求するミッションであり、価値観です。成し遂げたいこと、大切にしたい価値を実現するために今どんな行動をすべきか、ということです。

「今」に対して全力を尽くす、形にする、そして自分のミッションに沿って選ぶことによって、「今」の質と価値を一つの方向に向かって高める。その中で、人の能力は単に「変化」するだけでなく「成長」し「進化」するのでしょう。

能力は生まれ持ったものか、成長するものか

Amazonから入ってきた広告で紹介されていた本ですが、面白そうだったので、ちょっとネットでも調べてみました。Carol Dweck (スタンフォード大教授)という心理学者の研究なのですが、心的態度と意欲や自己意識、他の人への対し方との関係性に焦点を当てたものです。

「能力」についてのイメージの仕方に、大きく分けて、固定的・生得的なものだとする捉え方と、動的で成長するものだとする捉え方があることを指摘し、そのイメージの仕方の違いが、自分や他の人の評価、やる気、失敗などへの対し方など、生きる上での様々な局面での考え方、態度をどのように形作っていくか、について非常に示唆に富んだ論を展開しています。

まだざっくりとした理解ですが、端的に言うと以下のような主張です:

人の能力を固定的、生得的なものだとイメージする人は、

  • 有能に見えることを強く望む(逆に無能に見えることを強く恐れる)
  • 挑戦やリスクを避ける
  • 努力することの意味について懐疑的
  • 批判や失敗に対して自己防衛的態度をとりがちで、そこから学ぼうとはしない
  • 障害があるとすぐに諦めがち
  • 失敗からの立ち直りが遅い
  • 他の人の成功を脅威に感じる

>その結果、早い段階で成長が鈍化し、真の可能性をいっぱいに発揮できない

人の能力を動的で成長するものだとイメージする人は、

  • 学ぶことに強い意欲を持っている
  • リスクや困難に積極的に取り組む
  • 失敗や逆境に負けにくい
  • 努力することに意欲的
  • 批判や失敗を受け入れそこから学ぼうとする
  • 他の人の成功から学びや刺激を得る

>能力の面でも実績の面でも進化し続ける

エッセンスをまとめるとすれば、能力を固定的に捉える人は、自分の「今の能力」に囚われ、それをただ守ることに固執してしまうが、能力を動的に捉える人は、自分の能力を伸ばすことに注意を向け行動するため成長し続けられる、ということになります。

この研究の結論の重要な論点は、一般的に持たれがちな固定的・生得的な能力観が実は我々の成長可能性を封じてしまう落とし穴であるという部分だと思います。懐疑心の強い向きには、気持ちが良くなる自己啓発メッセージみたいでなんかなぁ、と思えてしまうかもしれませんが(私自身もはじめは少しそんな気がしました)、この論点が大事になってくるのは、自分の能力の伸びしろについてもさることながら、人を育てるプロセスにおいてだと思います。

人を育てる場では、能力が進化するものであるということが大前提でなくてはなりませんよね。もし能力が固定的なものだとしたら、学校のシステムでできることは子どもたちを能力別にふるい分けることくらいになってしまいます。ただ、今の教育のシステムが本当に動的な能力観に基づいてとことん作り込まれているのか、と考えるとかなり心許なくも思えます。

結構面白そうなので、本をしっかり読んでみようと思いますが、まずは読めるもの(英語で書かれたものですが)をご紹介しておきます:

“The effort effect” — Stanford Magazine 2007
Dweckの研究の発達の過程をわかりやすくまとめて解説した記事
“What do we tell the kids?” — Stanford Magazine
子供のほめ方について、Dweckの研究を応用したアドバイスをまとめている
“The secret to raising smart kids” — Scientific American 23(5): 2015 Jan

 

学びを支えるもの

本当の学びは、常に自己破壊をはらんでいるもの。

役に立ちそうな知識や技術を手際よく身につけること、これも学びの一部でないとは言えないが、本当の学びとは質的に異なる。今の自分を危険にさらさずに知識や技術を小手先で使うことを覚えても、化ける成長は起こらない。

だから、変わることを拒むと学べない。

学びを止めないためには、どんな事柄、相手に対しても自分を守りすぎず、自分が変えられてしまうことを受け入れる用意を持ち続けること。

それだけに、学びと成長のプロセスには不安や恐れはつきもの。
だからこそ、深い学びと成長がおきるには、何をおいても深い信頼と安心がまず必要だと思う。
そんな深い学びと成長がおきる関係、場を少しでも多くつくっていきたい。

成果を絞り出すことばかりにこだわり、そこから逆算してしか学びや成長を考えない傾向が強い今の世の中には、あまりに少ない気がするんだよ、そういう関係、場所が。

価値を創り出すとは予想を裏切ること

話であれ、行動であれ、相手の予想の範囲内のものは安全。

人に怪訝な顔をされることもないし、悪印象を与えることもない。

その代わり、人の印象に残ることもない。

聞いたとたん、見たとたんに、ああ、そういうことね、と片付けられるか、流される。

その人が元々持っていたものに何かを足すわけでもなく、ひっくり返すわけでもないのだから。

でも、予想外の話や行動は、危ない。

相手がどう反応するかわからないし、注意を引いてしまい逃げ隠れできないから、批判や嘲笑の標的になりうる。

でも、だからこそ、予想外の話や行動には価値がある。

受け手にとって、予想外の話や行動に出会うことは奇跡。

それまで知ることも気がつくこともなかった喜びや、感激や、驚きや、欲求に気がつかせてくれるのだから。それは、自分でもほしいことに気がつかなかった贈り物をもらうようなもの。

価値のある行動の裏側にはリスクを冒す覚悟がある。
リスクを冒したから価値が生まれるわけではないが、
リスクを冒さなければ価値が生まれることはない。

価値は、消費する以上に生み出していたい。

そのためには、いつまでも「あぶないオジサン」でいつづけなきゃ!

可愛げのある人

いくつになっても可愛げのある人でありたいと思う。

自分も可愛げのある人にひかれるし、可愛げのある人とは一緒にモノづくりができる気がするから。

じゃあ、可愛げがある、ってどういうことなんだろう。

「可愛げ」をつくる要因はいろいろあるんだろうけど、その中核は、勝とうとしていない、ということなんじゃないか。勝とうとするのは、他の人からの意見かもしれないし、他の人の運や境遇かもしれないし、他の人の容姿や強みかもしれない。

もちろんただただ負けて、自己否定に走ってしまうのはよくない。でも、いつも勝とうとしていると、周りや他の人に見られる良いところ、幸運、うなづける意見、全てが打ち勝つべき対象として感じられてしまう。

そうなると、自分がいいな、うなづけるな、と思うことであればあるほど、打ち勝ちにくい脅威として感じられてしまう。羨ましくなってしまったり、納得してしまったら負けだから。

そして勝ち目がなさそうだと、対象を否定したり、攻撃するしかなくなる。

そうやって、いいなと思うことに対するネガティブな行動が起こる。それがポジティブがネガティブに変わる瞬間。

「優等生」として成功してくると、ものごとを勝ち負け事で捉えて勝とうとしてしまう傾向が強いようにも思う。

「優等生」は勝ち方をよく学び、勝つことの楽しさを多く体験している中で勝ち負けのゲームに過剰適応してしまいがちなのかもしれない。合わせて、自分が感じた勝つことへの賞賛の繰り返しと、負けた人への仕打ちを見る中で、負けることへの恐怖も持つようになるのだろう。

しかも、負けることが少なければ少ないほど、負けることが怖くなってしまう。負けることの恐怖から抜け出るのは早いほうがいい。

楽しく負ける、勝ち負けにとことんこだわることはしないというのが、人とのつながりを豊かにしていくひけつかもね。

Fragile dreamer

自分は引っ込み思案な夢追い人なのだと思う。

夢見ることは好き
無茶な夢でも追いかけようと思う
追いかけるためにいつでも身体ごと飛び込もうと思う

人生、夢見ることが終わる段階はないと思う
夢を追いかけ回ることが大人げないとしたら、大人にはなるまいと思う
いや、なっちゃいけないと思う

自分は夢を持つ資格がないと思っている人、夢を追いかける勇気が出ない人を見ると放っておけない
その人の命がもったいないと思うから

でも、僕の中の夢追い人は引っ込み思案
無関心、無反応にはめっぽう弱い
皮肉屋のあきれ顔や懐疑派の批判は屁とも思わないけど
見向きをしてくれる人、乗ってくれる人がいないとすぐテンションが下がってしまう

もっと強靱な夢追い人でありたいと思っているけど
精神論だけではどうにもならないし
相手の反応に敏感なのは必ずしも悪いことじゃないかとも思う

引っ込み思案な夢追い人という性質は自分の結構奥深くに根ざしたものらしい
もともと寂しがりで恥ずかしがりでいながら、不器用なので、本気で取り組むには自分をさらけ出すくらいしか芸がない
でも、それで、これまで良かったこと、創り出せたこともたくさんあるから
これはこれで受け入れて、そこからどう積み上げるかを考えることにした

無関心には弱く、相手の反応に敏感という「弱さ」を持った自分の発揮できる力を最大にするために思いついた戦略

それは、向き合う相手と場所を見極めること

もともとすべての人の役には立てないし、すべての人に足しになることをできるほど器用でも多才でもない

だから、自分が役に立てる人、役に立てる場所を見極める
新しい人とのつながり、新しい場所に挑んでいくのは一生懸命やるけど
本気でコミットすべきかどうかという見極めを大事にしていきたいと思っている

できあがっていない人はオープンだからいい
いろいろ一緒にやれそうで、その可能性に心躍る
だからできあがっていない人に対してはほぼ無条件でコミットします!

掛け合いで生きていきたいなあ

「掛け合い」を大事に人生を生きていきたいと思う。

自分の動きを他から切り離した「自分」という枠に入れて活動するのではなく、その場その場で、その時の相手との間合いの中で、相手との駆け引きの中で、相手と共に自分の動きを創り出す。

駆け引きの相手には直接の話し相手だけでなく、周りの人々もより広い社会も含まれる。その場の動きに関わってくるすべてが「相手」。

相手との関係の中で動的に動いていると、僕らは自分たちの持ち前の力以上の力を発揮する。それは、相手との駆け引きの中では常に新しい、しばしば想定外の刺激が返ってくるから、自分の動きが自己完結しない。しようもない。

ダイナミックな掛け合いづくりには、お互いが相手に「振り回される」ことが大事。同じ場にいても、お互いが自分の殻に収まって、自分がすべてコントロールすることにこだわっていると、お互い自分の想定内でしか動かない。相手に「あずけて」自分を振り回させることで、相手の想定外の動きに突き動かされ、お互いの行動が持ち前の枠を超えて、はじける。

これは、「相手まかせ」「状況まかせ」とは違う。あずける先は相手自身ではない。相手からの要求や刺激だけに応えると、動きは結局相手という一人の人間の想定内に収まって固定化してしまう。

大事なのは、自分だけでもなく、相手だけでもなく、自分と相手との関係の中で相手の動きとどうからむかということ。

刻々と変わる相手との間合いの中で、自分の踏み出した一歩に相手がどう応えてくるか。それを踏まえて、その場の流れと新たな間合いの中にどう自分の次の動きを織り込んでいくか。

そんな風に、常に相手を見ながら、相手と引っ張り引っ張られながら、時には相手からの無茶振りに慌てながら、柔軟に、自分の多様な力を引きださせながら、相手の力を引き出しながら、生きていきたいなあ。

力より、まず恐れを飼い慣らす

体力や、学歴や、知識や、技術力、○○力、××力
いろんな力を身につけることは良いこと

でも、その力、本当に生かすには、自分の恐れと戦わなくてはならない

せっかくいろいろな力を持っていても
恐れに囚われていると
自分を守る鎧にしかならない

鎧としての力は
人のためにも、世の中のためにもならない
それどころか、人を傷つけることも少なくない

大事なのは力より、
まず恐れを超えて飼い慣らすこと

人の気配

製品に張られた表示シール
きっちり貼られたシールよりも、
すこし傾いたシールの方がいい

そこには、生身の人が関わったほのかな温かみがあるから。

ソファーに置かれたクッション
きっちり縫われたカバーもいいけれど
その隣のギザギザ縫いのカバーの方が好きだな

君が縫ったことが一目で分かるから。

そんな君も段々上手になっていって
君の縫い目であることが分からなくなっていくのかな

上手になってもクセが残ると良いなぁ

君らしさをいつも見ていたいからね。