「思い・気づき」カテゴリーアーカイブ

弱みを分析せずに、強みにかける

自分に勝負をかけようというとき、自分の現状分析は重要だが、自分の弱みを事細かに分析することはあまり有益でも意味があることでもない。弱みの克服は守りの発想。自分の弱みは克服しても武器にはならない。戦うときは武器をとことん磨いてそこに絞り込んで賭ける!

自分の弱みの分析にあまり力を注がない方がいい、その理由は:

1) 特に「自分の弱み」といった漠然とした形で自分にない物、足りない特質をあげつらってもきりがなく、自分の自信にとって毒になるばかり;
2) 弱点は時間や気力を投資して克服しても、自分にとって闘う武器・強みにはなりにくい

これは自分の弱点から目を背けると言うことでもないし、弱点を意識することが全く無駄であるということでもない。

弱点が自分にとって困るのは、自分の強み・ウリを発揮する上での足かせになる場合。それ以外の場合は、気にはなるだろうが、自分にとってクリティカルな問題ではない。

重要なのは、強みをさらにとがらせること。その強みをどのような方向性でとがらせていくか、そのストラテジーを練っていくこと。そのプロセスの一環として、強みのさらなる強化の支障となる弱みに対処することは非常に有効であろう。

弱みの克服は、意味があるとすれば、強みを育てる明確なストラテジーのなかで、そのプロセスをより効果的に進めるという目的に向かって行われるとき。弱みの克服はあくまで強みを育てるために、特定の制約条件をなくす目的で考えるべきこと。

まず第一は強みの強化。

 

自分が何者かわからない時

自分はどんな人間なのか、どんなことが得意なのか、どんな強みをもっているのか
自分の中を掘っても掘ってもわからない
自分の内側から必死に見回してもわからない

無理もない
なぜなら、人の「力」「役割」「強み」が根本的に他の人との関係の中で形作られるからだ

他の人が自分に認める力や強み、他の人が自分に期待する役割
そんなところから自分の存在の意味が見えてくる

だから、自分が何者かわからない時は、とにかく人との関係の中で動いてみるといい

  • 人と一緒に何かに取り組む
  • 人のために行動してみる
どんなに自分を見つめ続けても見えてこなかったものがきっと見えてくるんじゃないかな

成長を可能にするのは知識ではなく勇気

知識を得ることは成長のきっかけになりうる。

でも、知識を得ること自体は成長ではない。

人は、得た知識によって生き方が変わったとき、成長する。

どんなにはっきりと、どんなに深く「分かって」いても、時には苦しい思いをしながら生き方を変える、その勇気をもたなくては、知識は絵に描いた餅。

成長は、詰まるところ、自分自身を変化にさらす勇気にかかっているんだな。

 

同じ方向を向いて覚悟するグループを既存の組織内で作れるか

なにか本当に大きな変化、抜本的な改革をするには、自分の慣れ親しんだ安心ゾーンから出て考え、行動しなくてはならない。それは自分自身を今までに無い境遇や危険にさらすというリスクを負っている。それだけに、やり始める覚悟と、やり遂げる努力が必要。

しかも、それが一人ではできないことであれば、グループ全体が同じ方向を向いて、同じ修羅場を通る覚悟が必要。

でも、既存の組織の中で新たに同じ方向を向いて同じように硬い覚悟を決めるということは至難の業。組織はプロジェクトチームではなく、すでに人ありき。そこでそもそも思い切った改革や、新しいことなどできるのだろうか。

自分は信じない、人を信じる

「自分は信じない、人を信じる」
ジブリ・鈴木敏夫プロデューサーのことば

「自分を信じない」というのは自分にしっくりくること、自分に当然だと思えることに安住しないで疑ってみるという態度。

むしろ、信頼する人に「だまされてみる」。信頼する人のすすめ、無茶振りに乗ってみる。

自分の壁は自分では越えにくい。

「壁」というのは、能力自体と言うよりも、ものの捉え方、行動・思考パターン、内的な精神的リミッターなど、自分の行動と思考の習慣によって形成されているもの。だから、単純に「越える」といっても一筋縄ではいかない。自分の習慣は意識しにくいから、それを変えよう・越えようと言ってもどうやっていいかもわからない。

そこで突破口の一つとなるのは、状況や他の人からの無茶振りに応えるためになりふり構わず全力で戦うこと。

自分を信じずに人を信じるというのは、今自分がしっくり来ている状況、収まっている安住の場をあえて押しやろうとする、自分と戦い続ける姿勢。

人を信じて生きていこうとするときには、一緒に仕事をする人、一緒に生きていく人の選び方がことさらに大切。

本当にこちらを信じて本気の無茶振りをしてくれる人と一緒に生きていければ、自分の想像を超えて成長しながら生きていけるんじゃないかな。

人生の選択を確率で考えていくと

進学や就職などで人生のステージがさまざまに変わることが多いこの時期、人生の中での進む方向の選び方や決断の仕方について改めて考えてしまう。

可能性、確率を基準に人生の選択をしていくと、確率が支配する領域で生きることになる。

確率というのは、入れ替え可能な「同じような」人たちのグループ中での実現割合を計算するもの。

合格確率で大学を選ぶ。採用確率で就職先を選ぶ。

そうしようとすると多くの人が採るような選択肢の中でしか選べなくなる。

とんがった大学、とんがったキャリア、とんがった生き方は、どれも確率で言ったら手に入れる可能性が非常に低い。

だから、自分ならではの生き方がしたいと思ったら、確率で道を選ぶのはやめた方がいい。

 

変化のリズム

変化や方向転換も習慣。

定期的に変化させるリズムを作れば、タイマー仕掛けのようにカラダが疼いて変化をしたくなる。

できるだけ安定を保ち変化は必要に応じて、と思っていると、変化を起こすのが特別なことになり、心にハードルができる。変化自体を起こす前にハードルを越えるためのエネルギーが余分に必要になる。

フットワークを軽くして変化を起こしやすくするには、変化のリズムを作るのがいい。とにかく定期的に変える、変わることを前提に動くようにする。

目の細かい時間を生きる

子どもの頃、若い頃は、一日一日、一年一年が長かった気がする。細かいことすべては到底思い出せないけれど、どの年もいろいろなことが詰まっていた気がする。

中学や高校なんて3年ずつで、何とも慌ただしいと思えるが、比較的記憶が残っている高校時代を振り返ってみると、どの学年での記憶も長い時間であったように思える。

なのに、大人になってみると、5年や10年があっという間に過ぎてしまうような気がする。そうした時間の流れの速さは、人生が軌道にのって生活が安定してくるとなおさら。

日々の生活がルーチン化され、先の見通しもついてくるからなのだろう。代わり映えのしない平坦な土地をまっすぐに延びるハイウェイを走っているようなものなのだろう。そんな日々の中では一日一日が渾然一体となって区別がつかなくなる。

そんな時間の流れ方があるとき大きく変わった。子供ができたときだ。自分だけでは数日も生き延びられそうもない様子で生まれてくる赤ちゃんが、目まぐるしく成長し、いろいろな段階でさまざまな成長痛に悩みながら、変化し育っていくのに寄り添っていると、時間の進み方が一気に遅くなる。一瞬一瞬が大きな変化の可能性と緊張感をはらんでいるから。

僕らに与えられた時間は物理的には皆平等。誰にとっても一時間は一時間、一日は一日。でも、そこに詰まっている「意味」は瞬間瞬間への向きあい方で大きく変わる。特別なチャンスとして意識して向き合う一瞬がどれだけ多いかで、時間の織りが全くちがう。

変化に富んだ時間には多くの「意味」が詰まっている。変化がなければ、新しい意味は生まれない。一瞬一瞬に正面から向き合い、働きかけて、目の細かいいい時間を生きていきたいよね。

「本気」の約束

創られたものの形としての美しさには、時と空間を超えて人を動かす力がある。初対面の人でも、何の前置きもなく、いきなり心を鷲づかみにする魔力がある。作品の「見方」や理屈がわからない人も思わず振り向かせるカリスマがある。

だから、ものづくりには、技を磨き、形としての完成度を高めることも大切だ。

でも、ものづくりでの価値は形の完成度だけでは語れない。特にパフォーマンスについては。

そこでは、形としての完璧さよりも、その人の心がどれだけ宿っているか、その人の本気がぶつけられているかが、人々を動かし、かけがえのない価値を生む。形の完璧さばかりを追い求め、突き詰めると創るというプロセスそのものから意識が剥がれてしまい、心が入っていないカラになってしまうことさえある。

そのことが、セス・ゴディン (Seth Godin) のブログで非常にうまく語られていた:

もし、「生み出せる最高のもの」を求められたら、たぶん、今までに創ったことがあるもの、やったことがあるもの(例えば先週創ったものと同じもの)を見せようと思うだろう。「最高のもの」を求めるということは、以前すでにやったことを繰り返してやることを求めていることなのだ。

しかし、もし人が求めているものが、その時その場にいる「あなた自身」だったら、完璧じゃない。完璧ではあり得ない。あなたが生み出すものはただ以前とは別のもので、その場で創られた生のものであるというだけ。

人に向き合ったその場その場で出来ることは、あなたの本気を見せ、火を付け、大きく跳躍すること。本気で身体を張りながら、同時に完璧であることはできない。
本当の価値を生む人たち(アーティスト)に対してファンやお客さんが求めるのは「最高」や「完璧」ではなく、「本気」なのだ。

ジャズの演奏に「最高」や「完璧」は言えない。だからこそ面白い。
If someone wants your very best version, that probably means that they’re going to get the same version that you’ve done before, the same as the best version you produced a week ago. If you want the best, it also means that you’re asking someone to repeat what’s come before.

On the other hand, if they want you, right here and right now, it won’t be perfect. It can’t be. It will merely be different and real and in the moment.
The opportunity in any given moment is to share your truth, to light a spark and to leap. But you can’t do that at the same time you’re being perfect.
Artists end up with clients, customers and supporters that don’t demand the best. They merely demand the truth.
There is no best jazz performance. That’s why it’s interesting.

 

「本気」の約束と「本気」への期待・信頼でつながる関係を増やして、その中で生きていけたら本望だな。

美しい時間が創られる場所

美しい時間というのは過ぎてしまった時の中に多く見つかる気がする。

その時間がもう遠く離れて戻っては来ないという寂しさもあるのだろうが、経験・感覚・思いというものは、概して具体的な空間と時間に囲まれた場(「今」)を離れることで純化される。美しい時間、美しい思いは、それを生んだ場と離れたところに虹のように映し出される。

でも、虹を探しにふもとに走って行ってもどこにも実体としては見つからないように、「美しい時間」「美しい思い」も、それが感じられるところに実体はない。

虹は楽しめばいい。でもそれ自体を追いかけるな。

 

美しい時間・思いの実体は、いつも窮屈な空間や時間に囲まれ、喧噪と汗にまみれたその場、「今」、にある。その砂埃の中で美しい時間・思いの原石がつくられる。

美しいものを創る人は、不完全な、苦痛に囲まれた現実の場の中で、それと戦いながら、美しい原石を生み、心を尽くして磨いている。

それを思うと、創られたもの・時間の美しさ以上に創る過程につぎ込まれた命に感動する。