「置き手紙」カテゴリーアーカイブ

恐れは創造力の敵

恥ずかしさを含む恐れは創造力の敵。
創造的な力を骨抜きにしてしまうから。

我々はだれでも創造力をもって生まれてくる。

創造的な力は自分が授かった「自分らしさ」そのもの。
幼いときは気兼ねなく、恐れることなく「自分らしさを」表現する。

しかし、「自分らしさ」を表に出すことに対する批判的態度や、まだか弱い「自分らしさ」を傷つけられる経験などを積み重ねる中で、人は徐々に自分の中に備わる「自分らしさ」、創造力を表現することを恐れるようになる。

自分らしさ、創造力を押しつぶす恐れを越えるためには、自分の創造性に沿った行動を一つでも多く積み重ねて、恐れを形骸化するのが一番。

そのためには、自分の中の自分らしさ、創造力をたきつける。

そうすることで、表現したいという内的圧力を上げ、中から自分を超えるためのエネルギーを爆発させよう。

報酬にあわせて仕事をする?

「報酬並みの仕事しかしない人は、
仕事並みの報酬しか得られない」

どこで見たのか忘れましたが、ふと開いたメモに見つけたことばです。

はっきりとは言っていませんが、報酬の不十分さから自分の力を出し惜しみするような人は、結局自分の本当の力を認めてもらうこともそれに見合った報酬を受けることもない、というような負のスパイラルの話ですよね。

理屈で言えば、報酬が高ければ仕事の質も高くなるわけだから、仕事並みの報酬でも悪くないはずですが、そうはいかないのが「報酬」の性質。

報酬は金銭的なものであれ、感謝や社会的認知のようなものであれ、必ず「後追い」(時間的に後に起こる)で、その大きさも、少なくとも最初は、報酬対象の行為の総合的な価値の一部しか反映されていません。つまり、何か価値あることをやったとしても、その行為への報酬はすぐに得られるものではなく、後に得られる報酬も決してその行為がもたらした価値をそのまま反映した大きさにはならないのが常です。

価値を生む行為とそれへの報酬の間のタイムラグとサイズ上のギャップは、従来とは異なった新しい試みでは、ことのほか大きくなりがち。

報酬とはそういうものなので、それに照準を合わせて自分の仕事を調整すると、その仕事の成果は常に遅く、望ましい価値よりも低いものになってしまいます。

自分の力を出し切らないようなこと、したくないですね(働き過ぎて疲れているときなど、気持ちはわかるけど)。あくまで自分の生き方を基準に仕事をしていきたいです。

モノ化の広がり

消費社会というのは恐ろしい。

消費型経済はその「発展」と共に従来の「物」だけでなく、形のないサービスをも商品とするようになった。このすごい発明の結果、世の中に「売りモノ」がグッと増えた。そして、最近は労働をベースにした直接サービスから、情報、価値、気分までが「売りモノ」にされている。その真偽はおいておくとしても、「金で買えないものはない」と言い切る人も少なくない。

こうした消費型経済の発展のおかげで実現された素晴らしいこともあるし、便利になったことも多く、世の中が効率的に動くようになった部分も多い。特殊技能やアイデアが商品として流通することで、自分には技能やアイデアをもたないという人でも活用できるようになった。技能や知識上の富が広く社会に広まり共有されるようになった。

ただ、その反面で負の影響も大きい。

消費型経済でのこの無差別・無節操な「商品化」は、一方で、僕たち自身の人生をもモノ化してしまった。

消費者は「商品」に対して、比較による価値判断、それによる選択と消費、という形でしか関わらない。その「商品」を生みだす現場やプロセスに関する知識や当事者意識はない。

今僕らの周りは消費対象としての「商品」で常に囲まれている。その中では、例えば、人を育てるプロセスである教育でさえ「サービスとしての商品」であると考えられがちだ。

それどころか、絶対にモノ化できないはずの「自分」でさえもモノ化してしまっている人たちが少なくないように見える。自分の人生にもかかわらず、自ら作って生き抜くという当事者、作り手であることをやめて、消費者として選び、使い捨てる対象にしてしまっていないか。

自分の人生の外に身をおいて、外側から良いとか悪いとか品定めしているって変だよね?

自分が自分の人生を外から眺めている間、その人生を、誰が生きているの?

夢のような仕事って

夢のような仕事はなかなか見つからない。

まあ、だからこそ「夢のような」仕事なわけだけれど。

「夢のような仕事」が見つからないのは就職マーケットを知らないことが原因ではない。そもそも、情報を集めれば見つかるものではない。

「夢の仕事」は多くの場合「見つかる」ものではなくて、「創り出す」もの。そして、自分の合った仕事を創り出すには、自分がどのような人間なのかをしっかりと知っておく必要がある。

自分はどんなことに一生懸命になっていると楽しいのか
どんな時に喜びを感じるのか

多くの場合、自分の喜びは人の喜びとつながっている。人が喜んでくれると自分も喜びやすいから。だから、あわせてこんなことを考えてみるといいかもしれない。

どんなことをすると喜ばれるのか
どんな喜ばせ方が得意なのか

自分についてよく考えることは、けっして「ナルシスト」や「自己中心的」なんかではない。だって、自分がどのような事で最も必要とされているかを考えることなのだから。

自分自身が満足できていると、他の人の役にも立ちやすい。自分が最も喜びを感じられる人の喜ばせ方、それが「夢のような仕事」。

だから、自分の喜び方、喜ばせ方をよく振り返ってみよう。

どんな道も〜どこに向かおう

綺麗な景色が見たくて入った道も
人を避けたくてふとそれた横道も
よくよく思案を重ねて選んだわかれ道も
何も考えずに歩いたまっすぐ道も
ふてくされてヤケになって走り込んだ道も
知らないうちに迷い込んだ小道も
途中で間違ったことに気がついたけど意外と面白かったけもの道も

決して引き返すことはない人生の中では
どの道も同じように選んだ道
その場ではいろいろあって
区別してみたりするけど
どの道も同じように僕が生きた道

足が軽くてどこまでも
歩いていけそうな
爽やかな青い日も
身体中がきしみ音をたて
濡れじゅうたんのように
重くても
前に前に進み続けてる

上から見たら
横にそれたり戻ったり
グルグル回ったり
行ったり来たり
どこに行けているようにも見えなくても
道の景色はいつも違って
一歩一歩進み続けてる

いろんな道で
いろんな一歩を踏んできたけど
全ての一歩が今に立たせてる
今の景色は全ての一歩の
積み重ね
どの一歩が違っても今はない

次の一歩はいつも
小さい
前の一歩とつながってる

でも
次の一歩はいつも
見たことのない
新しい景色に
つながってる

次の小さな一歩
どこに向かおう

需要は追いかけずに創りたい〜自分の価値を自分で決められるように

モノやサービスの価値を世に問おう(売ろう)とする時、すでにあるマーケットに参入する方が安心。そこにはすでに他の会社などが開拓した需要があるから。

でも、すでに開拓されたマーケットから利益を得ようとすると、自分のサービスをそのマーケットの需要・価値観に合わせなくてはならない。さらに、多くの場合、同じマーケットをターゲットとした競合他社との競争に巻き込まれるため、安売り競争に取り込まれる。

そんな中では、自分の真の強みは発揮できないばかりでなく、そのうち安売り競争よって疲弊してしまうだろう。利益が上がりにくいことも苦しいだろうが、もっと辛いのは自分の営み、そしてそれを生み出す自分自身までもが「モノ」のように扱われることだろう。

安売りに群がる人たちはこちらのサービスを「他で提供されているのと交換可能な消費物」としか見ない。他での商品と同じだからどこで買っても同じ。それなら安い方がいい。となる。値段だけが尺度になってしまっている。そんなやり取りの中では一生懸命心を込めて生み出した営みも「単なるモノ」として扱われ、自分もそんな「モノ」を生み出すロボットのように感じられてしまう。

サービスや商品を送り出そうとするときは自分が持てる真の強みを基盤として、新しい価値、そしてそれを求める新しい需要を創り出すことをめざそう。特にはじめは苦しいけれども、本当に自分が提供したいものを売っていくには、独自のマーケットを創り出して行くことが大事。

この視点は、モノやサービスの提供だけでなく、世の中における自分の価値をどのように打ち立てていくかを考える上でもとても重要だと思う。

自分の役立ち方を既存のサービスや役割の中にはめ込んで考えるのではなく、まず、自分がつながりたい人たち、自分が応えたいニーズや期待を絞り込んで、その人たち、そのニーズに真っ正面から応える方法を考えたい。そうすることで、本当に自分が望む形で世の中に役立つことが出来るんじゃないかな。

言い訳せずにやりたいことをやり抜く覚悟

「一人前の大人」になるにしたがって、やらなければならないこと、締切が迫っていることばかりに追われることが多くなる。

そして、なぜか本当にやりたいこと、本当に楽しいことは後回しになりがち。

だって、忙しいのだから仕方がない。そんなことやっている暇がない。誰も私の代わりにやってくれない。やりたいこと、楽しいことは、この忙しさが一段落ついたら、暇ができたら、誰かが手を貸してくれたら、その時にやる、と。

でも、そんな時が来るのだろうか。

ひょっとしたら。

でも、自分を取り巻く外的な環境が自分に都合よく変わることを願うばかりでは、他人頼みになってしまう。周りの自主的な変化を当てにするということは、それに振り回されることになる。その変化がいつかいつかと待ち、一向に起こる気配がないと、いらつく。いつになっても状況が好転せず、なすがままになっている無力感が募る。

この焦燥感、無力感、よくよく考えてみると、外から押しつけられたものではなく、自分自身で働きかけることを放棄した結果。

考えてみれば、今の「忙しい状態」は自分の仕事の仕方、引き受け方の習慣に基づく継続的な状態。つまり、環境と自分との関係がそういう状態を作り出している。自分を取り巻く状況は、周りの環境にも要因があるが、自分のあり方もその形成に加担している。だから、今の状況は自分にも責任があるし、だからこそ自分で変えることもできる。

そんなこと言ったってそう簡単に変えられるもんじゃない。たしかに、全て自分の思い通りにはならないだろう。しかし、「変えられない」と感じるものの多くの部分は周囲との関係よりも、自分の習慣。自分がこれまで持ってきた価値観、行動の仕方、やり方、それが「変えられない」。

何も変えずに状況は変えられない。自分で変えるということは、周りを自分の思い通りに変えるということではない。自分「が」変わる。自分の行動パターンを変えることで、不思議と状況が変わる。

だから、大人になって、やりたいこと、楽しいことができなくなるように思えるのは、使いやすい言い訳が増えるからに過ぎない。

やり遂げようという覚悟を決めて、下手な言い訳をせず、やり抜けば、なんてことはない、本当にやりたいこと、楽しいことはいくらでもできる。

強みと弱み

人はだれでも強みと弱みを併せ持つ。強みだけをもっているような人はいない。強みと弱みは背中合わせ。

そういう言葉は良く聞く。

確かにそうである気がするけれども、ちょっと違うようにも思う。

そもそも人は多様だから、それぞれ他の人とは違った出っ張りやとんがりがある。あるとんがりは強みと感じられ、あるとんがりは弱み・欠点と感じられる。

でも、実のところ、とんがりそれ自体はマイナスでもプラスでもないのだろう。

自分の弱み、欠けたところと感じられるとんがりであっても、それを意識することは、探求、学びの原動力を生む。それを通して、自分の弱みは克服され、強みと合わさり、強い力となる。

また、弱みを意識することは、他の人との協働を促す。自分に足りないところは、自分一人の範囲で考えるとただの弱点かもしれない。でも、他の人たちとつながって生きることを考え始めると、その足りないところ・弱点が他の人とのつなぎ目になり得る。

逆に弱点のない人は他の人とつながる引っかかりが少なくなってしまうのかもしれない。

だから、人の持つとんがりはどんなものであれその人を動かす力を生みうる。そういう意味で、ある瞬間には弱みにかんじられるとんがりも、時間の流れの中では強み、財産につながっている。

「弱み」に感じられるものが本当の弱点、欠点になってしまうのは、「弱さ」の意識、劣等感が人の心を食い尽くしてしまうとき。劣等感が、自分への攻撃や、他の人への羨望、不足感につながると、その人から行動力を奪い、尽きることのないの焦燥感をもたらす。

折角の「弱さ」の意識、自分を見つめる勇気を自分の仇にしてしまわずに、飛躍のバネとしたいよね。

あえて自分をわからない

みなさんは自分がどんな人間かわかりますか? 

僕は、敢えて自分をわからなくなろうとつとめています。

自分を「こんなところだろう」という殻に閉じ込めたくないからです。

よくやるよな〜、と思えるはっちゃけ、
自分でも、よくやるよな〜、と思いながらも、そんな自分に突きつけている挑戦です。

昨日までの自分に安住したいと思う自分を追い立てて、不安なところへ飛び出させる挑戦です。

もちろんはっちゃけるだけが挑戦じゃあありません。
自分を「こんなところ」「そんなもの」に安住させずに、不安な一歩を踏み出させるために一押しする。

その一押しの形は人それぞれ。

みなさんはどうやって自分に挑戦しますか?

応援してます!
みんなの挑戦の話、聞きたいなあ。

弱みを分析せずに、強みにかける

自分に勝負をかけようというとき、自分の現状分析は重要だが、自分の弱みを事細かに分析することはあまり有益でも意味があることでもない。弱みの克服は守りの発想。自分の弱みは克服しても武器にはならない。戦うときは武器をとことん磨いてそこに絞り込んで賭ける!

自分の弱みの分析にあまり力を注がない方がいい、その理由は:

1) 特に「自分の弱み」といった漠然とした形で自分にない物、足りない特質をあげつらってもきりがなく、自分の自信にとって毒になるばかり;
2) 弱点は時間や気力を投資して克服しても、自分にとって闘う武器・強みにはなりにくい

これは自分の弱点から目を背けると言うことでもないし、弱点を意識することが全く無駄であるということでもない。

弱点が自分にとって困るのは、自分の強み・ウリを発揮する上での足かせになる場合。それ以外の場合は、気にはなるだろうが、自分にとってクリティカルな問題ではない。

重要なのは、強みをさらにとがらせること。その強みをどのような方向性でとがらせていくか、そのストラテジーを練っていくこと。そのプロセスの一環として、強みのさらなる強化の支障となる弱みに対処することは非常に有効であろう。

弱みの克服は、意味があるとすれば、強みを育てる明確なストラテジーのなかで、そのプロセスをより効果的に進めるという目的に向かって行われるとき。弱みの克服はあくまで強みを育てるために、特定の制約条件をなくす目的で考えるべきこと。

まず第一は強みの強化。