芝居の公演を振り返って

早いもので、この間の劇団わかんないの公演ななめ45度のキセキから一週間経ってしまった。この一週間は前半は寝込んでいて、後半は風邪を引きずりながら動いていたので、あっという間に時間が経ってしまったが、記憶が風化してしまう前に、自分なりに振り返ってみる。

今回のプロジェクトに声をかけてもらったのは9月のはじめ。10月の終わりにメンバーの顔合わせをしたときには、まだどんな作品になるのか、それどころかどんな風に作品作りが進んでいくのか、イメージができなかったが、「斜め45度の関係性」をテーマにしたいというのがとても面白いと感じた。

人通しの関係というのは、家族や先輩後輩という縦の関係や、親しい友達などの横の関係といった直接的な「直線の関係」よりも、直接の利害や関係がない「斜め45度」の関係の方が重要なのではないか、と言うのだ。確かに、「斜めの関係」の人に思いがけなく影響されたり、またそういう人からの影響は意外と素直に受け入れられたりして、人生の行く末に大きな、面白い意味をもたらすように思う。これにはピンと来た。

こんなテーマとか、自分が演じる人物の無難に生きてきた人生を打ち破ろうとする苦悩なんかを軸に、何かを表現し、見に来てくれたお客さんに何かを届けようと考え続けた。それで結局この作品で何を表現したかったのか。それらしいことは言えないことはないけれども、正直に言うと、今となってはよくわからない。

作品を作り込もうとしている段階では、こんな風な気持ちが伝わったらいいとか、こんなメッセージを送りたいとか考えたし、どんな風にそれを実現できるのかと総監督の陸くんといろいろ話したり、団員の間で結構激しい議論もした。でも、それも、作品と役に入り込んでいくうちに、どんどんわからなくなっていった。というか、考えなくなっていったというのがより正確かもしれない。

作品の意味とかメッセージなんかはあまり作り込むべきものでもない。送る側が一方的に決めて押しつけるべきものでもない。意味やメッセージはお客さんとの間で作られるもの。どんなものを受け取るかはお客さんそれぞれ。お客さんとの間で生じる意味やメッセージが一様ではなくオープンエンドなのが豊かで面白い、ってね。

それに、作品の意味とかメッセージが何かなどという問いは、ストーリーとか自分の役とかを離れたところから、ある意味「他人事」として見ている時に考えること、考えられることだと思う。台本を体に入れ、その台詞を通して自分がその役柄に入っていくと、その「役」に血が通い始め、一つの「人生」になる。そうなったとき、その役の生き様はもはや一言でラベル付けできるような「意味」や「メッセージ」なんてものでは捉えられなくなる。役の人生を自分として生きようとするとき、「意味」だの「メッセージ」だのというきれい事なんてどこかに吹っ飛んでしまう。生きるのに必死で、かっこつけている余裕なんか無い。本番前の楽屋で瞑想しながら考えていたことは、自分の役の人生を一生懸命生ききること。そして、舞台では一生懸命に生きられた。でも、自分の役や作品がどんな意味を表現したのかは、よくわからない。自分にとって確かなのは自分が一生懸命に生きたことだけだから。

それに加えて、このプロジェクトは僕自身の戦いでもあった。

陸くんの演出はいつも人が見せるのを恐れているところをえぐりだすというか、そこに挑戦をかけてくる。踊りだってアップテンポでキビキビ動くものが多いので、全くもってオジサン向けではないし。威厳なんか身ぐるみ剥がされる感じ。まあでも、自分の専門的能力や仕事上の立場とか社会的ステータスみたいなものに守られていない所で素で戦ってみると、自分が生身の人間としてなんぼのものかというのを確認できて、気が引き締まり、いい経験。自分を守ってくれる鎧、それは同時に、思いがけない方向への新しい成長を抑えてしまう殻にもなってしまう。成長をし続けるためには、自分から安全な鎧を壊さなければならない。恥ずかしかったり、怖かったりするけども。

僕は僕に与えられた役を一生懸命生きてみました。このお芝居を通して自分とも戦いました。それが、世界の空気を少しだけ波立たせ、ななめ45度の感じでなんとなく、どことなく、なんだかわからないけど、あなたに届いたら、嬉しい、かな。

何が贈られたのかわからない?

いいじゃないですか、そんなこと。僕はとにかく贈り物を贈りたかったんです、あなたに。

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