自分が生きていることの価値ってなんだろう

自分が生きていることの価値ってなんだろう。

人生を通して何度となく、ふと立ち止まっては考えてきましたが、今は、人の人生に触れて変える数かなと思っています。

一人ひとりの命とその営みはそれ自体尊いということは確かだと思いますが、自分の人生を振り返る時に、「生きた証」とか「生きた甲斐」をどこに感じるだろうかと考えてみると、自分がやったことそのものより、それが人々にもたらした影響や変化こそが実感をもたせてくれるような気がします。

だから、自分が他の人にもたらしうる最も良い形の変化はなんだろうと考えます。

ただ、人への影響や変化を考えながら生きるわけですが、人への影響や変化を「目的」として生きるわけではありません。人が影響を受けたり変化したりするのは、その人の自由で、僕がどうこうできるものでも、しようとすべきことでもないからです。

結局、意識するのは、他の人への影響を意識し、良かれと思いながら生きるということ、なのかな。

表現の価値

「僕は仕事をするうえで、エンターテインメントや表現に関わる人の評価基準は、どれだけの人にどれだけの大きさで影響を与えることができたかだ、と思っているんですね。『仕事の価値は、他人の人生を変えた数で決まる』と。」
(カドカワ社長・川上量生)

確かに。自分よがりに出したいものを出したいように出す、というのではなく、相手にしっかり向き合って、相手に届くように表現の仕方を悩み工夫すべき、という点では本当にその通りだと思います。

ただ一方で、どのような影響を与えるかはこちらが一方的に決めるべきものでも、決められるものでもないと思っています。表現する方としては良かれと思って、自分なりに心を込めて届けるわけですが、相手にとってどのような肥やしになるのか、ならないのか、については相手の中で起こることで、表現者としては、相手の人生に触れることができたという奇跡に感謝するだけ。

学びについてのパラダイム転換

僕は、広い意味で教えること、人の成長を導きそれに寄り添うことを自分のミッションだと考えています。大きく広がる好奇心、学び方を学ぶ力、問題を見いだし切り出す力、問題の本質的な解決とは何かを見極める力、自分の価値観を自覚する力、その価値観に沿って自分で選択する力を育てること、それに命をかけたいと思っています。

そのために、これまでいろいろな形で努力し、工夫もしてきました。その方法は、基本的には良い質問を投げかけることだったと思います。好奇心を刺激し、自分で考え、行動を起こせるようにするために、いかにツボに入って内的な知的エネルギーの爆発を引き起こすような質問をするか、一生懸命考えてきました。

でも、ずっと何か掴みきれていない歯痒さのようなものをずっと感じていました。しかし、それは相手から力を引き出す自分の質問力が未熟だからだと思っていました。

それが、この本を読んで、何もかも一気に吹っ飛びました。

『たった一つを変えるだけ』
ダン・ロスステイン、ルース・サンタナ著;吉田新一郎訳(新評論)

この本のポイントは非常にシンプルです。

真の学びを作るには学ぶ側が良い質問を作る能力を育てること、これだけです。

これだけだと最近割とよく聞くことのようですが、私が衝撃を受けたのは以下のくだりです:

「指導者ないし教師が良い質問をしているかぎりは、対象者は良い質問ができるようには決してならない」(iv)

「子供達は生まれながらの質問者。…子どもたちが質問をし続けるかどうかは、大人たちの反応にかかっています。」 (28)

「よい質問をたくさんつくり出し、そのなかから価値ある質問を選べるようにしてあげないかぎりは、学びも、組織との関係を築くことも社会の仕組みをうまく活用することもできないのです。」(iv)

なんと。教える側が良い質問を練れば練るほど学生や若者たちの中の良い質問の芽が刈り取られるとは…

これは相当にショックでした。

でも、ゼミやワークショップでの様子を思い返してみると思い当たることがあります。こちらが黙ってその場に流れに任せていると次々と面白い疑問や意見が出てくるのに、こちらが考えや意見を引き出そうと前のめりで練り込んだ質問をすると、質問の答えは出てもそれ以上盛り上がらないとか。

この本では、教える側は一切質問をしてはならないとまで言っています。

とんでもない本に出会ってしまいました。この本を読んで以来、授業だけではなく、研究会やワークショップに至るまで、新しい学びと探求の場の作り方についてアイデアがどんどん生まれてきてゾクゾクしています。

答えの探し方より問い方

実社会の問題は答えが一つではない。

その理由の一つは、実社会の問題は基本的に複雑で、その問題の全体をきれいに解決するようなたった一つの正解などはありえないから。

もう一つの理由は、問題にどのような影響を受けるかは人によって違うので、解決の仕方、何をもって解決と言えるのかは、誰の立場を考えるかで「解決」の仕方が変わるから。

つまり、答え方は無限大で、唯一の正解はない。
問題のどの側面を誰に対して解決するのかを考えなくては、求めるべき解決方さえわからない。

だから、大事なのは正しい答えを探すことではなく、正しい問い方を見つけること。質問をどのように設定するかでどのような答えが導かれるかが決まる。質問の立て方が洞察にとんだ面白い視点に基づいていなければ、洞察に富んだ答えは出てこない。

そう考えると、しばしば言われることではあるけれど、答えを探すこと、しかも素早く効率的に探すことばかりに躍起になりがちな従来の学校教育がいかに現実社会での問題解決から遠いか、改めて思う。

教科書の問題をどんなに速く解くことができても、それは予め決まった場所で予め決まった規則に沿って起こる課題の解決ゲームに過ぎない。まして、公式だけを覚えて問題解きの効率化を競ったりしていれば、その訓練は本質的な問題解決からはどんどん遠のいていく。

社会の変化の少なく、問題も定型化しているようなときであれば、それもまだ役に立つところもあったのかもしれないが、今のように変化が速く大きいときは、学校での「問題解決ごっこ」は役には立たないだろう。

今はとにかく質問の仕方で悩むべき時。

まして今は、従来の考え方でまともに答えを探しても解決法が見つからない問題が多い。全く別の枠組みで問題を捉え直して答えを作り出していく柔軟な知性が必要とされている。

理由なんかないこと

僕らはこの世の中の物事には直接の原因・理由があると思っている

なぜこんなことが起こったんだ?
誰がこんなことを起こしたんだ?

なぜ彼はあんなことを言ったんだ?
彼女はなぜそんな態度を取るんだ?

でも時には明確な理由なんてないこともある

単に運が悪かっただけ
なんか悪いことが重なっただけ
別件で機嫌が悪かっただけ
なんかわからないけど、うっかりやってしまっただけ

単純な直接の原因や動機なんてないことが結構ある

原因や理由を考えてみることは大事なことだけど、
明確な理由なんてない可能性を受け入れることも大事
時には、それをして初めて前に進むことができることもある

自分の境界の喪失と広がり

今日、長年自分が持っていて不思議に思っていた感覚の意味がふとわかった気がして、自分で感動したので、共有します。少しスピリチャルな感じでわかりにくいかもしれませんが…

子どもが生まれたとき、いろいろ大きな変化があったのですが、そのひとつが、自分の人生の終わりがそれほど怖くなくなったことでした。

それまでは、なんか自分が死ぬということにある絶対的な終わり感のような緊張感をもっていた気がするのですが、それがフッと解け、気持ちが楽になったのです。自分の周りを狭くはっきりと囲んでいた死という境界線が不明確になって、ずっと向こうまで地平が広がって見えるようになった。そんな感じです。うまく言えているかわかりませんが。

はじめは、子どもができて自分のことを覚えていてくれる人ができたからなのかとか、自分に自分の夢を託すことができると感じるからなのかとか思ったのですが、どうも違いました。その時以来、これは何なんだろうと考えていましたが、20年ほどずっとわかりませんでした。

それが、今日、ふとわかった気がしました。

ずっと向こうまで地平が広がっているような感覚は、自分という存在が、子どもや自分がつながっている大切な人を通じて、自分の身体を遥かに越えて広がっているという感じなのです。そんな中では自分の死ということがそれほど絶対的な終わりのようには思えなくなったんだと思います。

自分の子どもという深いつながりのある人間が生まれて、自分と他の人の間の境界が崩れたのでしょうね。それとともに、自分という存在も外に流れだし、他の人の存在と混ざって、さらに広がっていくように僕には感じられるんだと思います。

不思議な感覚。

わかりにくいかもしれませんが、なんか共有したくなったので、書いてみました。

恐れを知らないこととわからないこと

勇敢で恐れを知らない人とは、恐るべきことをしっかり恐れ、その上でその恐れに惑わず、逃げず、しっかり向き合うことができる人。恐れを感じない、わからない人ではない。

楽天的な人とは、悲しいこと、不安なことをしっかり感じて、その上でその悲しみや不安を押しのけながら、未来を信じる決意を持っている人。悲しみや不安を感じない、わからない人ではない。

強い人とは、打ちのめすような苦しいこと、辛いことを身体中で受けとめながら、その上でその苦しみや辛いことで自分が定義されることを拒み、断固として幸せであろうとする人。苦しみや辛さを感じない、わからない人ではない。

感じない、わからない人は、ネガティブなことに影響を受けず、勇敢で、楽天的で、強く見える。羨ましくさえ思える。でも、感じない、わからない人には勇敢さも楽天も強さもないのだと思う。なぜなら、ポジティブな生き方はネガティブなことがないことから可能になるのではなくて、ネガティブを受けとめて土台にすることで作られるものだから。

だから、恐れや悲しみや苦しみを感じることは、しっかり幸せになる能力があるということ。それがあるから幸せが作れる。

本当かどうかわかりません。
でも、あれこれ悩むことが多い僕はそう考えていないとやってられないのでそう信じてます。

同じように悩み性の人も、一緒にそう信じましょう。
そうでない方は、読み流してくださいませ。

恐れに向き合う力を得るには

僕は敏感で、感情的にも振れ幅が大きい性質なので、恐れや衝動などに突き動かされる部分が大きいです。なので、こうした恐れや衝動にどのように対するのかというのは、僕にとって大変大きなテーマ、いや命をどれだけ使いきれるかのカギであると言っても過言ではないと思っています。

思えば、これまでずいぶんと感情のジェットコースター気分を味わってきましたし、周りを振り回したこともあったと思います。そういうことを言うと、よく驚かれたりするのですが、中ではかなり戦い苦しんでいるところもあるんです。

今では、その恐れや衝動に少しずつ上手く対処できるようになってきましたが、そのきっかけについて、今日はお話ししようと思います。

僕にとっての転機となったのは、自分に多くの恐れや衝動があり、自分がそれに振り回されがちであるということを自分だけではなく人にも認めたことでした。最初は文字通り息がつまるほど抵抗を感じましたが、必死でそれを乗り越えてみると、憑き物が取れたように身体と心が軽くなったのを覚えています。

その抵抗を越えてみてわかったのですが、恐れや衝動が僕らを突き動かすその力の強さは、恐れや衝動自体の強さというよりも、それらの感情を恐れ向き合えないことからきているようです。夜道で後ろに感じた気配の怖さが、その怖さのあまり振り向けずに走り始めると爆発的に大きくなるのと同じ感じです。

もちろん、向き合っても実際に感じた恐れや衝動がなくなるわけではないですが、少なくとも手に負えない感じで増殖することはなくなり、「等身大」で向き合うことができます。

自分が極度に恐れていること、罪悪感を持っていること、恥ずかしいと思っていることは、まずその存在を認めてしまうことが向き合う第一歩。言うのは簡単。本当にやるのは相当難しいです。でも、信頼できる友達の力を借りればなんとかできます。本当の友達に自分を預けるつもりで身を投げ出してみる。その勇気を出すことができれば、超えられます。

表現は意味のきっかけ

創造、表現の意味・意義は、それを受け取る人との間に生まれる。

表現する側は、伝えたい気持ち、表したい情動に駆られて、形にする。

その形は、言葉だったり、お話だったり、音楽だったり、踊りだったり、モノだったり、空間だったり。

そして、表現された形が人々を喜ばせたり、驚かせたり、笑わせたり、考えさせたり、感動させたり、がんばらせたりする。表現する人はなにか伝わってほしいと思うものを込めて表現するのだけれど、受け取った人になにが感じられるか、なにが起こるかは、表現した人の思惑や想像には収まらない。表現する人の「意味」は、いったん形に表されると、相手の受け取りに託されるしかない。

その解釈は周りを囲む状況や受け取り手の気持ちなどに大きく影響を受け、それが表現する人の意図と合っている保証もない。ある意味、合っている必要もない。だから、表現する側は、結果として起こる表現の意味を正確に予見することも決めることもできない。その意味で、どのような芸術表現も言語表現も、「意味」の表現としては、「きっかけ」や「提案」でしかなく、完成された完璧な表現ではあり得ない。

だとすれば、表現においては、完璧にこだわらず、形にして出していくことが大切なんだろうな。

変化に適応することの難しさ

変化が起きているときに、それに合わせて進化していくのは意外と難しい

世界が変わったら、世界観を変え、新しい決断をすることが必要

それは、理屈では皆分かっていることかもしれない

でも、問題は、世界が変わってきていることに気がつけるか

周りの景色がちょっと前とは似ても似つかなくなって、
従来の生き方、やり方を続けることが日に日に難しくなってきていても、
気が付きたくなければ、世界の変化には結構気づかないもの

変化に気づくべき時に気づけるか

それは、変化を想定し、変化を受け入れる用意があってはじめて、気がつける