優しくなれるのは

「優しい人」とかいうけれど、優しさは個人の性質ではなくて、関係性。最近、強くそう思うようになりました。

優しいから優しくできるというより、優しくしたい人ができたから優しくできる。

そんなもんじゃないかな、と。

いい人も同じ。
いい人だからいい人でいられるわけではなくて、いい人になりたい相手ができて、いい人でいたい関係があるからいい人になる。

他の人が、優しい人、いい人になりたくなるような人、そんな人間でありたいです。

それぞれの人から優しさ、いい人らしさを引き出すような関係を増やしていけたら、いいよですね。

そうするとどんどん生きやすい世の中になるんじゃないかなぁ。

イグノーベルこそが創造力を解放する

友達から聞いた話。

息子さんが属している理系大学院の研究室でどうやったらノーベル賞が取れるかという話をしたら、すぐに話が尽きてシーンとなってしまったそうです。ところが、どうやったらイグノーベル賞が取れるかという話に切り替えたら、ものすごく盛り上がって、次から次へ面白いアイデアが出たというんです。

これって面白いですよね。

高額な大規模施設を使ったりして推し進める正統派研究は現在的な価値が高く権威もあるでしょう。でも、正統派研究というのは、研究活動としては間口が狭く、また新しいものを生む活力はないのかもしれないですね。正統派研究は、研究体制も意義も確立しているでしょうが、それ故に、それに乗った「勝ち組」を優遇し乗っていない「負け組」を排除するような図式を作り出しているのかもしれません。また、研究の対象もやり方もきっちり絞り込まれているでしょう。

それに対して、イグノーベル賞での価値観の幅広さ、面白がる心は、心を自由にして新しいことを試したり挑戦する気持ちを刺激することは確かです。

やはり、自分の周り、自分の関わるところにこのイグノーベル賞的な空間を一つでも多く作っていきたいなあ。

大きな夢には味方が大事

新しいことをやるというときには、一人は必ず味方がいてくれないと — 「それ、おもしろいよ!」って言ってくれる人がいないと — はじめの一歩を踏み出しにくい。

じゃあ、自分がおもしろいことを思いついたら、まずは誰かに言ってみるよう!

『ほぼ日刊イトイ新聞』今村正治+糸井重里 「はたらく場所はつくれます論」

 

挑戦し続けたいけどそれほど強くはない自分にとって、味方は本当に大切。

もちろん、味方にすがるわけではないし、応援を欲しがるわけでもない。

ただ、自分一人でできることに限界があることはわかっていて、それでいて、自分一人でできることよりも大きい夢を持ち続ける。おもしろいことを一生懸命話したらその意気を感じ入って助けてくれる人がいると信じ続ける。

そんなふうに味方を頼みにするということは、夢を自分のサイズに収めないで、自分よりもひと回りもふた回りも大きな夢を追い続けるためには必要なこと。

そう生きていきたい。

「まとも」

「まとも」と言われると嬉しくなったり、「まともじゃない」と言われることを恐れたり。この「まとも」という基準は結構パワフルで、自分も結構「まとも」の顔色を伺って生きてきた気がする。

ということで、「まとも」について少し考えてみました。

「まとも」とか「ちゃんとしている」ことは大事。
なぜなら、それは最低限の質を支えるための基準だから。

そう我々は思っていて、日常でもこのフィルターをかけていることが多い。
「まともでない」もの、「ちゃんとしていない」ものは相手にしない、取り合わない。

でも、しごく当然で常識的な基準であるこの「まとも」、よく考えると危ないところがある。

まず、「まとも」という判断の土台は、「社会的通念」「世間の常識」とでも言える様々な規範的な前提でできていて、あるものを「まとも」と呼ぶときには同時にその規範に当てはまらない人間に対する批判が隠れている。集団の規範・期待に添わない物事を「変な」奴、「外れ」者として「規格外」としてラベル付けして外す。その点で、「まとも」というラベルは、排除のロジックの一つ。

排除のロジックは、社会の中に選別と対立を生み出し、社会を毒する。

さらに、「まとも」は個人をも毒してしまう可能性がある。自分の考えや行動を「まとも」かどうかでフィルターにかけ、もっぱら「まとも」な考え方、「まとも」な行動をすることを優先してしまうとき、そこでやっているのは集団の規範・期待ばかりを基準に動くこと。

いうまでもなく、集団の規範・期待に沿おうとすること自体が悪いことではないが、もっぱら「まとも」であることを第一に考えてしまうと、自分のめざすこと、自分の考える幸せを端に退けて「世間」的な目標や幸せで自分を縛ることになってしまう。

美しいものの不思議

美しく咲き始めたサクラの写真を撮っていてふと思ったこと。

写真を撮ろうとするとき、僕はいつも何かを探している。

端的に言えば、「美しいもの」「心を打つもの」を見つけようとしているのだという気がするが、どういうものが「美しく」「心を打つ」のか。

花の形とか、花たちが作る空間とか、色合いとか、光の具合とか…

でも、よくよく考えると、「美しさ」は一様じゃない。

花びらがいっぱいに開いた姿もいいけど、開き始めのつぼみも愛らしい。
順光を受けて鮮やかな色がはじけているのもいいけど、逆光を浴びて光の輪郭に形取られているのにも息をのむ。

強いて言うなら強いコントラストが効いていて「ドラマチック」な光景が好きかな。でも、その美しさは具体的な見た目では定義できない。

色々な要素の微妙な組み合わせで、ある瞬間にパッと見えるようなものだから。見える時にはあんなにはっきり感じられるのに、外形的な作りなどでは説明したり、再現したりするのは難しい。

そんな掴みきれないバランスでできているところが、「美しさ」の面白い所以。

人との間合いの難しさ、面白さ

混雑している駅などで前から衝突コースで人が歩いてくる。それをよけるのは結構難しい。

相手の歩き方を見つつ、ぶつからないようにコースを変える。すると、なにを思ったか相手もコースを変えて。慌てて避けようとしたら相手も同じことをして、結局ぶつかってしまう。なんてことは意外と多い。

前からきたのが物だったらこんなことは起こらないだろう。

相手が人の場合は、相手方もこちらの動きを常にモニターし、お互い相手の動きを予想して、それに応じて双方が行動を細かく調整する。

ここに人相手の間合いの取り方の難しさがよく表れている。

我々はややもすると、相手が人であっても、物であっても、外界にあるものは基本的に物理法則に従って動くとおもってしまう。だが、人通しの場合は、お互いがお互いの判断や行動に影響を与えあっているから、動きが予想外になる。

特に、問題となる間合いが物理的なものではなく、心理的な間合い(親しさや信頼、相手への気兼ねなど)であると、間合いの解釈、評価のズレが大きくなりやすいので、うまく調整するのは至難の業。

全てをきちっと想定内に収めてコントロールしようと思うと、こういう相互作用は困ったものだと思えてしまうけれども、相手に半分預けつつ、互いに意識し合いつつ間を合わせていく、これこそが生きた関係。それを味わい、楽しむ柔軟さ、余裕を大事にしていきたい。

どうせ変わらない?自分と自分の可能性を疑う前に

自分のやるべきことは何か
生きたいのはどんな人生か
どうしたらそれができるのか
そのためには何が必要なのか
どのような戦略が必要なのか

一生懸命考える
考えに考え抜く

それを積み重ねてしばらくしてふと自分の状況を見てみると、
あまり大して変わっていない

どうしてちっとも変わらないんだろう?
まだ全然知識が足りないのか
自分には必要な能力・リソースが足りないのか
やっぱりそう簡単には変えられないのか

行き詰まりを感じ、焦りがこみ上げてきて
自分の熱意や能力に対する不安、不信が出てくる
夢がしぼみ、力が抜けていく

そんなことを結構繰り返してきた

でも、ふと思いついた
自分を、可能性を、自分の努力の成果を疑う前に、自分が本当に「行動できているか」確認しよう

夢が妄想になっていないか
– 本当の夢と、ないものを追いかける渇望が混在していないか

行動を起こせているか
会うべき人に会っているか
外に出て現場を見ているか
足を動かしているか、アクションを起こしているか
ゴールに向かって何かを作ってみているか
やったことを形にしてShipしているか

自分の行動を広げているか
新しい人に会っているか
新しい場所に行ってみているか

本当にやり尽くしたのか
会うべき人にすべてあったか
やれることはすべて試したか
可能な失敗をすべてやり尽くしたか

こうやって振り返ってみると、意外と行動が起こせていないことに気がついた
なかなか時間が自由にならないとか
どんな行動を起こせばいいか、まだ発想力が貧困だとか
そんな問題はあるのだろうが、十分行動にできていないことは明らか

とすれば、それは自分の能力やリソースや可能性や運などのせいにして、自分はダメだと考えるのはお門違い

自分や自分の努力を疑うのは、やることをやってから
それまでは、安易に自分や自分の努力を疑うことはやめよう

そう決めました。

自分も心当たりがあるという方々、頑張りましょう!

不正は研修やスローガンではなくならない

ここのところ大きな「不正」がニュースを賑わせている。ちょっと前のことだが、新聞の1面に、ゴムメーカーが品質チェックのデータを改ざんして強度の足りないゴム製品を売り続けていた話、排気ガス規制をかいくぐる細工をしていた車メーカーの続報、基礎の支柱の工事データをごまかしてちゃんと打ち込んでいなかったために傾いたマンションの話、と3つもの事件が載っていた。

どれも深刻な不正で、大変なことだ。

こうした事件への対応は、だいたい、誰がやったのか、悪意があったのか、誰が知っていたのか、という「犯人探し」の形をとる。もちろん、特定の個人だけではなく「組織の体質」のようなものが問われもするが、基本的に当事者たちの倫理意識の低さが原因だということで片付けられる。はっきりそのように言われなくても、その後に起こることを見ると明らかにそういう片付け方をしていることがわかる:当事者たちは処罰され、他の人たちは「コンプライアンス研修」を受けさせられたり、「倫理ハンドブック」を配られたり。つまり、見せしめの罰や倫理教育によって不正を防ぐことができると考えている。しかし、こうした対処の仕方は、不正をする理由に対する想像力が弱すぎ。

そもそも人が不正をしてしまうのは、不正行為が悪いことだとわかっていないからではない。

たとえば、納期厳守が至上命令、納期を守れなかったらクビ、そういう価値観の中で追い詰められたら、どうか。目の前の現実にあるリスクの方が遠い人たちのことや結果などよりも深刻に感じられ、目先のことを優先して考えてしまうことは十分ありうる。外から見たら常軌を逸した判断だと思えることでも、その常識的考えを大きく歪めるほどの異常な圧力がかかった状況に置かれていたら、同じようには見えないだろう。

もちろんやってはいけないことは明らかなのだが、そんな建前を言っても、ひとが瞬間的にでも腹いせで動くこともたくさんある。本当の対策は、現実を否定していては始まらない。

不正をした理由をよく聞いた上で、本当の理由への対策を打つことなく、不正だけを咎めると、人は理解してもらえないことに心を閉ざしてしまう。

「良心」「倫理」の態度を理解させようとする努力は重要だが、「良心」「倫理」を外的に押し付けようとしてもうまくはいかない。外的強制は、それが効力を発揮しても建前が発達するだけ。

人の「良心」「倫理」を本当に育てるためには、他の人に対する想像力、共感力を育てることが大事。ただ、その力を持つ前提として、自分が尊重されているという根源的な安心感、自己尊重感が必要。自分を大事に思えない人は人のことも大事には思えない。

目の前にいないひとを大切にする価値観を保つためには、環境は大切。社会環境は価値観、価値判断を思いの外大きく形づける。

言葉の意味が伝わる基盤は、信頼

言葉というのはその内容が大事。

それは間違いないのだけれども、
効果を考えると、実は思う以上に誰からもらうかが大事だったりする。

例えば、信頼できそうもない人から発破かけるような言葉をもらっても、
白々しく感じたり、
場合によっては、イラっときたり

どんなにいい言葉がけも、自分が信頼する人からもらわないとぐっとこない

だから、逆に、自分の言葉を人の役に立てたいと思ったら、
メッセージの練り込みや言葉使いの手法を磨くことよりも
まず、信頼してもらえる関係を作ることから

「社会起業家」は特別な人たちなのか

セス・ゴディンのブログより:

より良い社会を作っていくために世の中の価値観や考え方を変えていくべくビジネスを作っていこうとする人を「社会起業家」と呼んだりするが、それには少し問題がある。

というのも、そうした人たちに特別な名前を与えて特別扱いすることで、逆に、他の人たち、「普通の起業家」たちはより良い社会づくりなどは考えず、ただひたすら金儲けに邁進すれば良いと思わせてしまう危険性があるからだ。

しかし、どんな仕事、どんなプロジェクトも何らかの変化をもたらし、その変化は人々の世界や価値観に影響をあたえる〜つまり、社会を変える。もたらす変化が良いものか悪いものかは、我々が決めること。

そう考えると、我々は誰でも「社会起業家」なのだ。人によってもたらそうとするインパクトの大きさに違いはあるけれども、それは程度の問題であって、社会の変化をもたらすか否かの違いではない。

Original article: “We are all social entrepreneurs”

同じような意味で、「社会問題」という用語も、それがあるがゆえに、社会の中の取り組むべき問題を狭く考えさせているところがありますね。「社会問題」というのは、何もメディアで大々的に報道されたり、政府が選挙対策のために政策課題として取り上げるようなものばかりではないはず。社会の中の様々な問題と「社会問題」は違ったカテゴリーの問題じゃないです。

「社会問題」を広く社会にある個人を越えた問題だと考えれば、誰でも何らかの社会問題に影響を与えうる立場にいることになりますよね。